グッドフェローズ

AmazonPrimeでマーティン・スコセッシグッドフェローズ」(1990年)を観る。ジョー・ペシがまくしたてるジョークを、たぶん全然面白くないのに大受けのふりをしてるレイ・リオッタの爆笑顔が最高だった。口だけで笑ってる、こういう笑い顔のやついるよなー(笑)と思った。

日本のヤクザ映画や任侠物はそうでもないのに、ハリウッド製作のマフィア・ギャング映画が自分はなぜか好きで、マフィア・ギャング映画はどれもおおむね、詰まるところ組織論というか会社員物語で、ずっと会社員である自分はだからそれに共感するのかとも思うが、自分がその手の映画を好むことに気づいたのは中学生とかそのあたりからなので、もはや自分の体質がもともとそういうテーマを好むのらしい。

裏組織は裏社会の秩序を維持する役割を表組織から担っている(それを警察や企業から実質的に受託している)、というのがほとんどのマフィア・ギャング映画に設定された構図だから、本質は裏も裏も変わらなくて、裏社会は表よりハイリスクハイリターンであるというだけなので、マフィア・ギャング映画をほとんどの人は自分らの社会と同構造をもつ世界として共感・感情移入ベースで観ているはずだ。

主人公のレイ・リオッタは、ひたすらボスのロバート・デ・ニーロの顔色をうかがっている。とは言ってもこれ見よがしにヘコヘコしてる訳ではなくて、優秀な部下っぽくいつもボスの傍らにいて、まるでボスの心の動きを常に察しているかのように、何かあればすぐに動く。忠実で頭もそこそこ良い人材として上司の信頼を勝ち得ているような感じだ。この「手下」「部下」感の絶妙さ…。こういうものだよなあ…と言わざるを得ない感じ。こういうのを観て楽しむのはマゾヒスティックなのだろうか。

上司(ではないがそのような位置付け)のロバート・デ・ニーロは何を考えているのかわかりづらい。すでに有名だし大物だが、やや過激に走り過ぎるところもある人物だ。口封じのためとは言えあまりにも殺しをやり過ぎる。レイ・リオッタと共にロバート・デ・ニーロの下で動くジョー・ペシは相当ヤバいヤツで、陽気さを装った神経質が垣間見え、気に入らないことがあればすぐ銃を向けるし、時にはお前まさか今ここで射殺したら後始末どうするんだ?と思うような短絡的な行動にも出るが、その気性の荒さや自己顕示欲の強さゆえに人物としてはわかりやすくもある。

そんなジョー・ペシの行動にロバート・デ・ニーロは怒ったりイラつきを見せもするが、ただし基本的にデ・ニーロはジョー・ペシを見限ったりはしない。おそらく二人は昔からの仲間で、レイ・リオッタには届かないようなところに関係性が築かれている。だからジョー・ペシがファミリーの幹部に昇格するとの報せを受けたときデ・ニーロは我がことのように喜ぶ。ジョー・ペシはイタリア系だからそのような昇格対象にもなりうるのだが、アイルランド系のデ・ニーロは彼の兄貴分にもかかわらず決してその対象にはならないのだ。しかしだからこそデ・ニーロは「俺たちの仲間から幹部が出た」と言って喜ぶし、そしてジョー・ペシの昇格が罠であり過去の報いで消されたのを知って、まるで身内を喪ったかのようにはげしく怒り嘆くのだ。

レイ・リオッタが演じたギャングのヘンリー・ヒルは実在のギャングで、実際はもっと「大物」だったのかもしれないけど、この映画ではあまりそういう感じがしない。いかにも中途入社で、遅れてやって来て、デ・ニーロにもジョー・ペシにもなりきれない、ほんとうにコアなファミリーになりうる人でもない、ひたすら奥さんに手を焼いてる平凡な小悪党という感じがする。組織への忠誠とか、出世や自己実現とか、そういう物語を生きていたのはおそらくデ・ニーロの方だろうと想像されるが、それも憶測でしかない。とくにレイ・リオッタが保釈された後など不気味なほどにデ・ニーロは一貫して、何を考えているのかわからない。

追い詰められたレイ・リオッタは、このままでは自分が確実に消されることを予感し、司法取引してデ・ニーロとファミリーのボスを警察に売る。大物を引き渡すことで警察からの保護を獲得して保身に成功するという、実話に基づいているがゆえのリアルでもあり興ざめでもある結末だが、これで二人の関係が長い一時保留となった、ということでもある。裁判所で証人席に立つレイ・リオッタと被告人席のデ・ニーロに、それぞれどこか白けたような、ほぼ何も読み取るべきものがないかのような表情が貼りついていたように見えた。