ボナール

乃木坂の国立新美術館でボナール展を観る。はじめて観る作品もあれば、観たことある作品もあり、今までと違って観える作品もある。良いと思えるもの、そうでもないと思えるものもあるが、そういう事ではなく、そもそもボナールって、ある意味、もう手の施しようがないほど「ダメな絵」の感じもある。うわあ、、と顔をしかめたくなるようなところがある。

だからつまり、今さらながら、あらためて謎だと思う。ボナール。

通り一遍には、二十世紀前半のフランス人の、著名な画家。

1867年に生まれて、1947年に死去。印象派マイスターたちの次世代、ピカソ(1881生)やマティス(1869生)とほぼ同時代か。画家としては最初から成功して、そのまま晩年まで行ったような感じか。

マルトという女性と生涯連れ添った。フランスの都市型ではなくどちらかというと郊外を生活および仕事の拠点とした。

身の回りの人物や風景や静物をモチーフとして。ある様式、文化、規律に則って生活をしている人々、ピクニックとか、球を打つゲームとか、公園でくつろぐとか、子供と遊ぶとか、ランプの下で机を囲むとか、そういった普段の生活の様子を描く。人も描く。飼い犬や猫たちも描く。自らの生活も描く。自画像も描くし、友人の画家の肖像も描く。恋人もモデルにして描く。そのモデルとおぼしき女の、夜の寝室でのあらわな姿も描く。その傍らに立つ全裸の自分も描く。入浴する姿も描く。身を屈めて片足で突っ立つその身体の内側に溜まるぼやっとした光の反射を描く。凝視されるためにあるかのような裸体の表面を描く。室内を描く。机上に静物に反射する光、引越し先の部屋に入ってはじめて窓を開けたときに見えただろう大量の自然光と共に広がった景色も描く。窓枠の形が変わるほどにあふれ出すものを描く。そのとき見て、こうだったということからとりあえず出発して描く。

しかし、謎だ。それだけでは何もわからない。それがそのままどうなってこうなるのか。何を考えていたのか、どういう人間だったのか。自分がどのような時代にどのような位置付けでどのような役割を担っていると思っていたのか、自分の人生が今までどのようであり、この後どのようになっていくものと思っていたのか。いや、それ以前にボナールはそもそも人間だったのか。人間だとしても、僕が思い浮かべる人間のイメージとボナールが思い浮かべる人間のイメージには、どれほどの隔たりがあっただろうか。それとも、驚くほど隔たりがなかったのだろうか。何をどう思っていたのかを想像すること自体が無駄なほど、別の世界の出来事としてこれらの絵画はあるのだろうか。

勿論これらの絵画は充分な力でこちら側にリーチするのだ。そのポテンシャルが今も息づいている。しかしそれがなおさら謎なのだ。上手く行くと、はじめからそう思っていたのか?だとしたらそれだけが、あなたの心の拠り所か。

会場にはとても興味深い写真群が展示されている。1890年代後半から1915年くらいまでの、当時コダック社の技術で写真が一気に大衆化した時代、ボナール自身の撮影によるスナップ写真群である。庭で甥っ子と遊んでたり、ルーセル(レーモン・ルーセルなのか?)やヴィヤールと汽車で旅行しているときの写真もある。なかでもひときわ印象的だったのが、恋人マルトとボナール自身のヌード写真で、家の庭なのかどこなのか知らないけど、森林を背景にした全裸の女、そして男で、ほとんどマネ「草上の昼食」そのままの世界みたいなことになっている。こういうことを、カメラを手にした当時の人たちは皆していたのか、まあ、皆とは言わないが、一部の人たちなら、してないことはないだろう。ましてやアーティストとモデルなら、ましてやボナールとその恋人なら、当然それはするだろう。しかしボナールの、おそらく当時三十代の男性の身体としてかなり均整がとれた感じに、それこそ百年を経てもじつに生々しく、ああそうか、こういう人だったのかと新鮮な思いを味わう。なんだか、とてもすこやかな男性で、その単純ですこやかな性欲を、目の前の相手にひたすら向けて注いでいたのではないかと感じられた(そして勿論、いま読書中である「どくろ杯」の金子光晴とその妻との関係を思い起こさせた)。絵を描くのとセックスするのと、ほとんど差異がないのではないかとすら思われた。作品単独の良さというものはありえず、やはり、さすがにどこかに、心の拠り所はあったのではないか、作品を観ながら僕はそういうことを気にしていたのかもしれなくて、ボナールのすこやかな野蛮さと、時空を隔てたいつかどこかの別の誰かの考えや作品や思いと響き合って共鳴していたのかもしれないものを、何の手がかりもないまま自分の拠り所のように目を泳がせて探したくなる思いだった。