デジャヴュ

先日、久々に強力なデジャヴュを味わった。仕事中、電話の向こうの相手と話をしているときだ。

そのとき相手が言った言葉と、それに対する自分の返答、さらに続いた相互やり取りの一部始終が、丸ごとそのまま、そっくりそのまま、かつて一度体験したはずでどう考えても間違いなかった。まずそのことの、疑いようもない強い実感が喚起された。

今リアルタイムで起こっている出来事なのに、それが同時に、かつて経験したとしか思えないようなものとして知覚される。それがデジャヴュである。そんなことは、いまさらここに書かなくても、誰もが知っていることだろう。しかし、にもかかわらずそれをこうして愚の骨頂のように書かないではいられない、その理由は、デジャヴュの信じがたいほど確かなものとして届く実感の強さゆえだ。

何度経験しても、それは驚くべき体験だ。今聴いている話、そしてそのあとに相手の口から続けられるだろう話、それらすべてが、一度聴いたことのある、それら全体を一度経験済みである何かとして、たった今、知ることでありながら、すでに知っていたことでもあるのだ。というか、そのようにしか感じられないのだ。

それにしても、その感触の強さは驚くべきもので、ここまではっきりとした実感をともなうのだったら、さらにその先の、まだ言葉にされていない、まだこの世界に現前していないやり取りも、おそらくこのあとに続くであろう相手の言葉も「予知」出来るのでは?と思うけど、果してそれは、どう転んでも、出来ないのだ。

それがすでに知覚・体験済みであるという感覚は、きわめて強固であるにもかかわらず、その先の予知までは無理で、それは出来るようで、ギリギリでそうではない。そのような能動的な(自ら知りに行くような)立場には決して自分を移動させられず、まるでスクリーンを前にしたかのごとく、あくまでも一方的に受け入れるだけ。その知覚体験が、今この瞬間であると同時に過去であると、並行して感じ取ってるだけ。それが、デジャヴュだ。

知覚と記憶は同時に形成される。はじめに知覚があって、それを元に何らかの処理を経て(時間をかけて)、その結果が、記憶として保存されるのではない。もしそうだとするなら、記憶として保存される前の諸処理は、記憶そのものではないのか……という矛盾を、解決できないからだ。

したがって、知覚と記憶は同時に形成されると考えるべきなのだ。これを例証する一例がデジャヴュであると、ベルクソンは言う。