わたしの見ている世界が全て

kino cinema立川髙島屋S.C.館で、佐近圭太郎「わたしの見ている世界が全て」(2022年)を観た。面白かった。

森田想演じる主人公は、学生時代から始めたベンチャー事業がそこそこ成功して、自他共に認める誇らしいキャリアを重ねていて、仕事の手応えも感じていて、若いうちから第一線でバリバリ働いてることの自負も満足もある、おそらく二十代後半くらいの女性。

しかし若さゆえか、ゆとりの無さゆえか、勢いと思い込みの強さゆえか、他者への想像力の欠如ゆえか、そういった性格的傾向から、他人へのアタリが強くて、ややパワハラ傾向があって、被害を訴える社員もいて、それが原因となって社長からは見限られ、ついに会社を解雇されてしまう。

そして細々と食堂兼生活雑貨の店を自営する兄二人と姉の暮らす実家へ、彼女は戻ってくる。ずっと仲違いしていた両親はすでに亡くなったし、この家を売却したらどうかと彼女は兄たちにもちかける。じつは新たな起業を目論んでおりその資金がほしいのだ。しかし長男は断固として反対し、姉と次男は曖昧な態度を返す。

相当に思い込み強く、目的を遂行することに躊躇が無く、どこまでも突き進む力はあるけど、留まったり遠慮したり一歩下がって見守るのはおそらく性に合わず、他者への配慮とか気配りとか思いやりの余地もかぎりなくゼロな、いわば押しの強い、困ったヤツである森田想は、描きようによっては相当イヤな人間にもなるだろうし、いわば「悪役」的キャラクターにすっぽりおさまりそうな人物でありながら、本作は彼女に限らずすべての登場人物を、決してそういう風には扱わない。まずそこがすばらしい。

彼女の短絡や思い込みや浅はかさは、他の兄弟たちから疎まれ、呆れられ、ときには強く批判される。しかし彼女は大して気にもしない。この兄弟という関係ならではの距離感と遠慮の無さの感じがいい。兄弟のなかにひとりでもこういうタイプがいるだけで、周りは本気で迷惑だろうけど。兄の結婚相手からは直接的に「あなたのような人が苦手だ」とか言われてしまうのだが。でも彼女はそういうのをあまり気にしないようで、は?何言ってんの?みたいな顔をしてる。神経の図太さにおいては見上げたものがある。

ある意味で、物事をじっさいに動かし展開を呼び込むきっかけとなるアクションは、いつも彼女から仕掛けられている。兄や姉らも、そのことに無自覚なわけではない。彼女は何しろ家を売りたい、起業したい、金が必要、というだけで、その障壁になりそうな要素に対して臆することなく直接交渉しようとする。ものすごい行動力なのだが、しかし兄弟たちのかかえている個々の問題や思いは、ビジネスの問題とは違う。もう少し繊細な、取り扱い注意なことで、ビジネスと同じように考えるべきではないのだけど、おそらく彼女はそこがあまりピンと来てない。

問題を金に換算して片付けよう、あるいは複雑な過程をすっ飛ばして解決のかたちを仕立てようとする発想が、いかにもまだ若い社会人---しかも自分は能力があり周囲から一目置かれてる自覚をもつ系の人---に特有のもので、そういう感覚の人は、世の中にたくさんいて、それこそが社会性の無さ、経験の足りなさと呼ばれるべきなのだが、なぜか不思議なことに、かえってそういう人物がそうではない人に向かって、得意げに意気揚々と「あなたは社会性がない」とか平然と言い捨てたりするのが、この世の常だとも言える。彼女もまあ、そういう人だ。

しかし彼女は、そうやって自分本位に行動して、色々と批判もされるけど、何というか、この映画そのものからは、批判も糾弾もされてない。むしろ彼女の行動や発言は、あらあら…と先が思いやられるような頼りなさや性急さをともないながらも、思わずこみ上げてくる笑いを抑えるしかないような、どうにも憎めないところがある。というか、そう考えるしかないところがある。デリカシーの無さ、繊細さの欠如がもたらす多大なデメリットと、ほんのわずかなメリットというものを、彼女は自らで体現している。

実際、彼女の単純さや浅はかさをいったん見ないことにするなら、その行動や言動そのものは、どれも正論ではあり、問題の要を正しく突いているのだ。その正論を何の躊躇もなくまくしたてるのは、たしかに子供っぽいし迷惑ではあるけど、それを間違いであると否定するのも難しいのだ。そのことは他の兄弟たちも、薄々は感じ取っているのだ。

だから結論として、誰が正しかったとか、誰が間違っていたとか、この作品はそのことを問題にしていない。異なる考え方をもつ複数の人物たちの、誰もが誰もの都合や思いで、それぞれ生きている感じ。誰かが何かを働きかけて、それに対して様々な反応が起きた。誰かは傷ついたし、誰かは自分の行く先を決めた。その作用と反作用の過程を、そのまま現わしている。その丁寧でフェアな感じが、すごく上品なのだ。

だから最後に「ムカつくけど、あんたには感謝している」と、姉は(かなり苦々し気にだが…)彼女に言うだろう。しかしそれは決して彼女の考えの正しさを意味しない。

彼女は、信頼できる元部下と共に起業を準備していたのだが、最後にその部下から突然去られてしまう。彼女にとってそれは想定外で、こうなった原因がまったくわからず「つまり私が悪いってこと?」と思わず声を上げる。たしかに彼女から見た世界においては、彼女に落ち度はない。しかし現実として、人は去っていく。

そもそも、実家のお店を畳んで売却するのは、お店の常連客たちもみな高齢化してきたことだし、このまま商売をやっても売上も利益も先細りする一方だろうから、との見込みによるものでもあった。長兄は家長として家にこだわりがあったけど、兄弟たちのあいだでは、売却すべきとの見解は現実的判断としてある程度妥当なものだったろう。常連客たちの存在も、その妥当性にいたる過程で「計算」されていただろう。

しかし実際に、いつものように店を訪れて、店がすでに閉店したことをその場で知り、兄たちによろしくと言って踵を返した老婆の後ろ姿を見たとき、そこには私の見ている世界とは別の世界があったこと、その老婆の見ている世界では、この店や兄や姉らが今もまだ変わらず存在しているはずだったこと、そのすべてがわたしの見ていない世界だったことを、彼女は予感する。しかしその一抹の不安のような答えの無さを、彼女は黙って味わうしかない(しかしこのラストは、終わらせ方としてはいまいち弱いのでは…という気もしたけど)。