Amazon Primeで大島渚「マックス、モン・アムール」(1986年)を観た。フランス映画の体裁ではあるけど、妻が異形の者と関係をもつときの、夫の狼狽というか不安というか、日常に突如として刺し込んでくる不条理のニュアンスは、近代日本文学に近しい感じもあるのかなあ…などと思った。
シャーロット・ランプリングのすべてをわかったかのような、冷静に落ち着き払った感のある一重まぶたのまなざしが、すべてを黙らせてしたがわせるほどのパワーをたたえていて、ふつうに怖いというか、もはや反論不可能という感じ。奥さんが突然わけわからんことになる的な映画は、そういえばこれ以外にも色々あったかもしれないなあ…と思う。本作でも他もそうかもしれないけど、ここで奥さんの内面に生じた「謎」は、解明・解決・解消すべき対象ではなくて、単に共存すべき課題みたいになる。こういう展開はこのあと、様々な映画でくりかえされたものだと思うし、本作はそのなかでも比較的早い例なのかもしれないなと思う。