美味しくない

三浦哲哉「L.Aフードダイアリー」では、著者がL.Aの食文化を体験し考察するにあたって、料理評論家ジョナサン・ゴールドの著作とレビューを、導きの糸というか重要な進む先の杖として見出すのだけれども、その料理評論家について、最後の方で紹介される以下のエピソード。これはすごくいい話だ。外食というのは、突き詰めてしまえばこういうのこそが醍醐味なのだとさえ思う。

生前、ゴールドはその評論で、しばしば「どうしても好きになれないもの」について語った。それは重要性において、「好きなもの」と同等であったようにも思える。たとえば、レビューを書くためになんと十七回通って、それでも好きになれなかったというレストランについて、ゴールドは次のように発言している。

(…)台湾料理屋だった。私はそこに行って、ある意味、まずいと思った。臭豆腐は経験済みだったが、あんな臭豆腐は初めてだった。それからあのポタージュ、とろみがつけられていたのだが、スプーンに液体が張り付いてぶるんと持ちこたえるほどだった。奇妙な燻製の臭いは、まるで誰かがタバコを突き刺したみたいだった。異様にパワフルな味の苦瓜が出てきて、その苦味と言ったら抗がん剤みたいだった。(…)でも、そこが悪いレストランではない、ということも私には分かったんだ。客たちはきちんとドレスアップしていたし、あきらかにこの店が好きだから来店しているようだった。だから私がこの味を好きではないのは、文化的相対性によるもので、だからまだ楽しめないだけではないか、と考えたんだ。同時に思うのは、評論家の十中八九は二度とこの店に戻って来ないだろうということ、それどころか、「ハハハ、あいつらは臭い料理を食べている」とでも書くだろうということだ。

 この話を聞いていたシエツェマは「この店の料理を好きになる、というところまで行かなければ気がすまなかったんだね」と合いの手を入れるが、ゴールドは次のように返答する。「結局好きにはなれなかった。でもとても頻繁に通った──大嫌いな店なのにだ──給仕のおばさんの一人が自分の娘を私とくっつけようとしたほどだ」。

(L.Aフードダイアリー  214頁) (電子書籍

さすがに極端な事例というか、ふつう、こんなことは無いというか、これほど魅力的な「美味しくないレストラン」に出会うこと自体が、とても難しいだろうけど。

それこそ、若いときに体験することなら、外食に限らず何に対しても、すべてがこうだった気がする。自分を強引にその場所へあずけて、良し悪しも何もないまま、そのわからなさ、その意味不明さを、ただ吟味するような。

(大抵は、どうしても好きになれないまま、嫌いなままということはなくて、ほとんどは慣れてしまう、落ち着いてしまう。)