EO

新宿シネマ・カリテでイエジー・スコリモフスキ「EO イーオー」(2022年)を観る。

人間ではなくてロバであり、牛ではなく馬でもなくロバであり、野犬でも狐でも鳥でもなく、蜘蛛でもなく蛙でもなく、ロバである。

あの寂しそうな、つぶらな瞳で、無抵抗を象徴するかのような、無垢そのものみたいな「表情」を、彼はひたすら画面に大写しであらわしているので、まったくあのロバは、哀れで無力な、受動性の塊のようでもあるけれど、でもよくよく思えば、あれほど頑固で我が強く自らの立場に居直ってる存在も珍しい。

ロバがあくまでもロバであること、彼はそれを疑いもしないし、まるで、そのことを誇るかのようだ。そんな彼が関わる場において、必ずトラブルや問題が発生し、人も他の動物も、それぞれの運命下において揉め事に巻き込まれたり、生きたり死んだりして、結果的にロバだけが(その気になれば後ろ足蹴り一発で人間をノックアウトさせるくらいの「実力」は持ち合わせているくせに…)、ただぼんやりとその場に佇み、その哀し気な視線をふっと外すかのようにして、相変わらず存在しているのだから、もしかして諸悪の根源は、あのロバにほかならないのでは…とか思いたくもなる。

ただしそれはおそらく良し悪しの問題ではない。良し悪しを問題にしたいのは人間だけだろう。あるいは人間がそれを問題にせずにはいられないから、ロバは映画のなかで、あんな態度を求められる。というより観察者の立場を強いられている。悲惨な現場に否が応でも付き合わされる実況役みたいな立場を。

おそらく本作の試みの中心は、ロバを媒介とした動物や鳥や蛙たちの生と死であり、その見て聞いたもの、その経験(クオリア)を表現することにあるだろう。真夜中の森の中、川を進む蛙の視線、高速で暗い空を移動する鳥の視線、景色の色と広がり、時間の流れかたの、その手探りを確認することだろう。

またロバ自身の死に瀕する瞬間、そこに唐突にもボストン・ダイナミクス社の四つ足ロボットが明滅しながら蠢く様子が挿しはさまれる、その強引に接ぎ木されたイメージの面白さであり、巨大なダムから逆再生でうごめく大量の水流を背景に、橋の上に佇むロバの姿の、その脈絡のなさに仕掛けられた非・人間的存在(主観)の予感でもあるだろう。

もとより映画のカメラは、登場人物の視点をあらわしているのではないし、神様の視点をあらわしているわけでもないのだが、その非・人間的主観のさまざまなイメージを試しながら、本作のカメラは自身を何者であると意識しているのか、その手探り、弄りがこの映画を支えているとも言えるだろうか。

しかし(映画と関係ないけど)「湯浅湾」の≪望まない≫は、素晴らしい。
http://hosakakazushi.com/?p=1463