流れよわが涙、と警官は言った

P.K.ディック「流れよわが涙、と警官は言った」を読み終わった。(第四章「エピローグ」では、各登場人物たちのその後の顛末が短く紹介されるのだが、この年末の時期に読んだせいか、それらがまるで「今年亡くなった方々」のご紹介のようにも感じられてしまうのであった…。)

人も、スイックスと呼ばれる新型の人間も、社会も、時間の経過に押し流されていって消え去り、あるいは形を変え、しかし青磁の壺だけが、どこかのコレクションの展示室に、今も静かに展示されている。その作品は決して「誇らしげ」ではないし「芸術家や芸術作品の優位」を示すものでもない。そうではなくただそこにある。作品は人間や社会やスイックスから切りはなされてそこにあるがゆえ、嘆きとも歓びとも愛とも無縁だが、たぶんそのようなものを内側に包括してはいる。あるいはそれを人間とは別のやり方で記憶してはいる。(アリスが所蔵していた「緊縛」イラスト集の何点かも同様に…)

ルースは、悲しむというのは死んでいると同時に生きていることだと言う。だから私たちの味わうことのできるもっとも完璧で圧倒的な体験だと言う。でもわたしたちはそれに耐えきれるようには作られていない、そんな波やうねりを受ければ人間の体なんてガタガタになってしまう、それでもわたしは悲しみを味わいたい、涙を流したいと言う。なぜなら悲しみは、失ったものと人とを、もう一度結びつけて同化させる。離れ去ろうとする愛するものや人とともに行く、なんらかの方法で自分を分裂させて、その相手のいたときのことを思い出す--と。

ルースの言葉がいまいちピンと来ないタヴァナーは、しかし有名とか金持ちとか高い地位とかのの価値はよくわかっているつもりで、それこそが生きる価値だと思っていて、もっと有名になってお金持ちになるためのいくつかの方法をメアリー・アンに提案する。そんな彼のなかには、メアリー・アンへの同情、あるいはもどかしさ、あるいは手の届かなさのような思いが、おそらくあるだろう。たぶんそこには、自らが持つかすかな欠落、欠損の予感、もしくは自らの声が届かない場所や存在に触れた際のリアルな感触が含まれてもいるだろう。

陶芸作家であるメアリー・アンは、ルースのように嘆くことを欲しないし、タヴァナーの示す価値にも食指を動かさないし、おそらくバックマンのように涙を流すことがない。彼女の気掛かり、メアリー・アンの不安---後悔、黒歴史、ばつの悪い思い出---は、たとえばかつて腎臓の病気で余命いくばくもない母親が訪ねてきたときの記憶のなかにあって、彼女は自宅に訪ねてきた、もう腎臓を二つとも取ってしまわねばならないほど病状の悪化した母を、疎ましく思う。そして買い物先の肉屋で、よりによって「キドニー・パイ」を作るための「腎臓肉」を買い求め、それを調理して食べる。母親はそんな娘を信じられないという目で見る。彼女は今もそのことを忘れてない。おそらく彼女は今も「なぜ私はそんなことをしたのか」「そのことは悪いことなのか」「それにしてもあの料理は美味しかった」…そんな思いに揺れている。愛が嘆くことだとするなら、メアリー・アンのそれは愛ではなくて、なぜ自分が愛や嘆きを、必要としないのかということ、そのことへの戸惑いだ。

メアリー・アンはおそらく子をもたないが、バックマンは妹アリスとのあいだに子供が一人いる。時が流れ、その子にも様々な出来事がありそれらを経て自らの人生を歩んだことが短く記録される。しかし青磁の壺(作品)だけは永久に不動なまま…といった印象で、作品が閉じる。