Amazon Primeで、マチュー・アマルリック「彼女のいない部屋」(2021年)を観た。思ったほど驚かなかった。それは去年一度観ていて、どういう映画なのか知っているからで、知っているからこそよけいに面白いのではないかと期待しての再見だったのだが、意外に面白さを感じなかった。

どうもわかっていることの確認になってしまうというか、そんなに手の込んだ、複雑な仕掛けを張り巡らせた映画というわけではないのだ。ただヴィッキー・クリープス演じる女性の錯乱と不安と悲しみが、序列的に混乱したまま、波状になって押し寄せてくるのを観ているだけみたいな感じだ。

ただヴィッキー・クリープス自身の、家族の一員としての悲しみ、母としての悲しみに拮抗するくらい、ピアノを練習する娘への眼差しも多くて、ほとんど母と娘が主観として融合してしまうかのようでもある。それゆえ、他所の家の子と自分の娘の見分けがつかなくなる、ほとんど幻想を見ているようなことにもなる。

亭主や子供たちの妻であり母であり、しかし一人の人間でもあって、時には一時的にせよ役割から降りたい、一時だけその場から離れたい欲望があり、でもそれを自分で認めたくはなく、複雑な思いを抱えていたからこそ、大きな事件を経て、このような錯乱が起きた。そのことはよくわかるし、だから見ていてけっこう辛い話で、辛い話だなあという側面がより強く伝わってくる感じだった。なぜか「TAR」の後半を思い出させるところもあった。