Amazon Prime高橋洋霊的ボリシェヴィキ」(2018年)を観る。観終わって戸惑う。これはなかなか難しい…と思う。霊的体験といういわば、どこまでも個人的でどこまでも主観的なものであるはずの、そういうものとボリシェビキという組織立った政治思想活動が、何の留保もなくいきなり結び付けられていることの異様さというか、その接続の質感こそが本作の要だとひとまずは思う。

霊能力というか、死の世界に近づいた経験をもつ人々が集って、それぞれ自らの体験談を話している。それらは逐一録音されている。霊媒師のような女性は、話し手の能力を判定して、もっとも能力の高い者を選別しているようでもある。舞台となる空間はすでに異様な雰囲気に満ちていて、時間の流れるスピードや目に見えない何らかの気配や物音や叫び声を響かせもする。さらに奇妙なことに、そんな彼らを見下ろすようにして、その場内にはレーニンスターリンの肖像写真が掲げられている。彼らはボリシェヴィキ的な思想信条にもとづいて、この営みを実践しているらしいのだ。おそらくひときわ高い力をもつと思われる主人公の女性の、その高まりが周囲に満ち始めて、彼女のこれまでの過去が本人によって告白される。母にまつわる閉ざされた過去が露となり、じつは彼女へと差し替えられた、もう一人の娘についての記憶がその奥底から蘇ってくる。母親の幽霊がその場へあらわれ、さらにその先の光の向こう、おそらくこの組織の少なくとも霊媒師の女はずっと待ち望んでいたらしい世界への入り口が、ついに開かれようとする。ここぞとばかりにメンバーの一人を「粛清」してまで、その光に向けて彼らは頑張ったのだが、結局それは失調し、光はうしなわれ、試みはどうも失敗したらしい。「あの世」(?)から届けられたのは、布に包まれた枯れ老木だけだ。その後、メンバー全員の「粛清」がはじまる。粛清というか集団自決というか、一人がメンバーを次々と拳銃で射殺し、最後は自分の頭部に銃口をあてて倒れる。静寂が訪れた後、ふいに老木が動き出したかと思えば、そこには少女が、差し替えられた本来の少女が姿をあらわすのだ。

あくまでも主観的な、他人とは共有も理解もできない、説明不可能な、抑圧された私だけの過去の記憶というものがあり、その一方で、目的、希望、幸福のイメージを最大公約数的に共有して活動の契機とする集団組織というものがある。

宗教でも政治でも思想でも会社でも、組織の目的が未達となるなら、構成メンバーは消えゆくしかない。それが直ちに個人の死を意味しなかったとしても、組織の崩壊もそれはそれで、ひとつの死ではある。

彼らの奇妙さは、組織として時には死を恐れないかのようでもあるが、個々においては死を恐怖し死に魅入られてもいるように見えるところだ。そもそも個人的な死への関心が、彼らを組織化したのだろうと、そう考えたくなるからだ。だったらなぜこんな最期が用意されているのか、このような後味を残す「ホラー映画」を、これまで観た記憶がない。