Amazon Primeで、加藤泰瞼の母」(1962年)を観る。全編セットでの撮影っぽく見えるけど、金町松戸あたりを舞台に、物語がはじまる。渡し舟の船着き場にある茶屋の場面とか、絵として決まりきっていてとても素晴らしい。これほどまでにバッチリと決まった画面内を、人物が、物事が、運動が、計算され尽くしたように動いていること自体に、「おきまり」と「おどろき」が混ざり合ったような、映画でしか味わえないものを感じさせられる。

主演の中村錦之助が、母を探して江戸へやってきてからの最初の長回しシーンの素晴らしさ。人々が行き交ってる場の片隅に、盲目の老婆が流しで三味線を弾いている。からかい半分の通りすがりの男が、あれを弾け、次は浪曲だ、次は流行り歌だと、老婆にあれこれ指図して伴奏にあわせて気分よく歌っている。この場面がけっこう長いのだけど、老婆と男のやり取りの後ろでは、通りを人々が行き交っていて、誰もが自分のこと以外には無関心で、そうなのか、ここが江戸なのかと、それをしだいに感じさせるだけの時間が流れている。そして行き交う人々のなかから、その場に立ち止まってその様子をじっと見ている男があらわれる。それは中村錦之助のようだけど遠景のためはっきりとはわからない。…がしだいに、たぶん主人公で間違いないとわかってくる。

やがて立ち去ろうとする男は、老婆が盲目であるのに気づき、金を払わずにその場を立ち去ろうとする。案の定その男の前に中村錦之助が立ちふさがる。彼は男に「おい、銭は払わねえのかい」と問い詰め、有無を言わさぬ迫力で凄み、もっていた唐傘で男の脛あたりをバタンとはたく。男は震えあがり、慌てて老婆のもとへ戻って金を渡してその場から逃げ去る。

…いかにも昔の任侠映画らしい場面だと思うが、そこに至るまでの長さがすごい。弱い者を助け、母の前で泣き、敵陣とチャンバラする、そういうわかりやすさのはざまに、ふいにこういった生の暴力感が紛れ込んでいて、ハッとさせられる。ああやっぱりヤクザなんだなと思う。

老婆を演じるのは浪花千栄子だが、ほとんど顔も写らないくらいで、なんだかもったいないほどだ。沢村貞子も素晴らしかった。こういう持ち味のある人だったのだなあ、と思った。木暮実千代は安定感というか、いつも通りな感じ。中村錦之助をはじめとして、誰もがものすごくわかりやすく大味で芝居臭いのだが、ここではもちろんそれが良いのだろう。

しかし本作は「沓掛時次郎 遊侠一匹」の四年前か。沓掛時次郎とくらべると本作での中村錦之助は、母恋しの物語なのだから当然だけど、いかにも若々しく感情過多である。というか四年後の沓掛時次郎のとくに終盤、よくぞあれだけ煤けた雰囲気になったものだなと思う。