三宅誰男「双生」を読了した。とても良い作品だったので、読み終わって非常に嬉しくて、本を置いた後もまだ活発にこころの中で動くものを抑えながらその余韻を味わっていた。
二週間くらいかけて読んだことになるが、但しその間、終始肯定感だけで読んでいたわけではないことは書いておく。いくつかの箇所に疑問を感じるところも、ないではない。しかし、とくに終盤にきて、そんなことは大して重要な問題ではないということを、小説の側から強く教えられたかのように感じた(なので、本作のおよそ前半部について自分は再考の必要があるかもしれない)。
手法ではなく説明でもない、何者かによる何者かへの切羽詰まった疑問としてそれを提示する。小説の力とは、この疑問の強さであり、それを書ききる気迫というか、手探りのまさぐりをくりかえして言葉にならぬものを何とか言いあらわそうとする蠢動のことなのだろうと思う。それが何かを明確には説明できないが、必死になって手を伸ばして指先をのばして、そうしたら何かしらの感触が爪の先に残った、それにかすかにでも触れることができたような、この小説の迫力はそこにこそある。これを書かねばならなかったので、そのように書いたという強さがある。その意味で小説とは、言葉を使う表現でありながら言葉自体では何もあらわすことの出来ない表現でもあるだろう。
全体の印象として、捻じれた貴種流離譚、はじめから失敗が決まってる帰還の物語とでも言えば良いのか。とはいえ物語はまるで川の流れに乗った一枚の葉を見ているかのように寄る辺なく流れていき、主人公の「彼」はひたすら運命に対して受け身をつらぬく印象だ。また主人公自身の告白や内面が必要以上に吐露されることもない。余計な無駄口はきかぬ寡黙でクールなやつ、そのような態度で世界と対峙する性格の人、というのはわかる。が、「彼」の元に押しかけ女房みたいにして嫁いできた妻フランチスカが、何を目的とし何を考えているのか、彼女の父親や彼女を連れてきた陸軍将校の小父はどんな人物だったのか、「異彩の大隊長」とは結局何者だったのか、なぜ「身代わり」になったのか、隠れ里の女と子供が何を思い、事の次第をどのように受け止めたのか、帰還後に妻が抱いている子供は誰の子なのか、それらいっさいを、なぜ主人公の「彼」は、直接問いたださず、ひたすら沈黙の中にいるのか。そもそも消えた片割れの兄とは、実在したのかしなかったのか。旧友や敵国人など誰かと見間違われる「彼」は、いったいどんな風貌をしたどんな男なのか。これらすべてに明確な回答は与えられない。すべては現実の確からしさをもたず、「彼」は自分が自分であるとの自己同一性を確保しておかねばならぬ必然性が希薄で、ゆえにすべての行為に根拠の裏打ちはない、何もかもが先取りされているかのようで、見ると見られるにせよ、話すと聞くにせよ、すべての送り側と受け側の境界線は曖昧なままだ。
この小説は、物語の謎によって終盤まで読者を力強く引っ張ってくれるので、読む面白味は抜群に高い。だからその面白さに乗っかって進んでいけば良い、すべては後で判明することだ(解決が与えられる/与えられない可能性を含めて)とも思える。そういう強みがあるのは序盤からわかった。だからその興味に惹きつけられて読み進めてはいけるのだが、中盤にかけて、出征先の砂浜で塹壕掘りの毎日になるあたりまでは、正直、このまま行くとやや苦しいのではないかとの小さな不安を感じてもいた。
序盤の、初盆の夜の幻想的な有様はとてもうつくしいものだったが、前半において「彼」の家族に対する書き込みが足りないようにも思われた。母親をはじめとする身内の存在感がほとんど無いまま、「彼」が故郷を後にしてしまったように感じられた。片割れの兄についてはひとまず置いたときに「彼」にとって家族(肉親)とはいかなるものなのか、幼少時からの記憶をどのようにかかえているのか、意図的にではあったとしても、そこをぼんやりとさせているので、ゆえに唐突に家族の一員となるフランチスカの違和感や謎性も「彼」のおそらくは死の覚悟も伴ったであろう出征への思いも、ありうべきしっかりとしたコントラストで浮かんでこないように思った。
また「異彩の大隊長」の人物造形も、これはこれで良いのだろうかとの疑問は残った。こちらは謎というよりも、ミステリアスな存在としてのキャラが紋切り型に立ち過ぎてるように思えた(発見された最期の姿も含めて、但しそれが大隊長であると同定されるときの場面自体はすばらしかったが)。同じく小隊長もこのような人物としてやや類型的過ぎやしないか。いずれにせよ軍隊の歪んだ社会関係のなかで、苛烈な暴力や強制的な労働を経験し、空襲後の惨状や人間の尊厳を棄損されたような衝撃を感じる場面もあり、そうであるにもかかわらず、戦地であり軍組織に属した兵士としての「彼」が、それをどのようなものに認識しており、どう腑に落としているのか、それを掴みきれず、読者としては消化不良なものをおぼえた。特攻への退路断ちを脱出機会の発見に読み替えるところや、竪穴同士が横に繋がりはじめた景観が故郷の水路のイメージに重なるところなどはあまり成功していると思えず、その塹壕の砂浜は、終盤において重要な場面として再来し、ようやく場として生き始めるのだが、それまではやや難ありではないかと思う。おそらく兵士としての「彼」が、まだ充分に兵士として統治されきってないことのあらわれでもあるのだろうし、だから「彼」にとって戦争というのは、無意味に塹壕を掘ってそれを埋めて、それで帰ってきた、そういうことになるのだと思うが、そうだとしてもそこに内実をもった納得を感じることが出来ず、いくつかのエピソードが置かれた、それ以上のものになってはいない気がした。
中盤あたりまではそんな印象をいだいており、このままのテンションでこの先も進むとしたら、僕にはちょっと辛いかもしれないぞ…と一抹の不安をかかえてはいたものの、しかし心配は杞憂だった。終盤に動き出す「彼」は、ほとんど「彼」の内面の規則にしたがって動きはじめる。このとき小説そのものが動き出したと感じた。もちろんこれも僕個人の勝手な感覚として、そうとしか思えなくて、そこに根拠説明の余地はない。ほとんど自分を(読み手の僕ではなく、この小説が自分自身を)賭けて、自分の置かれた条件や環境下でなすべきことをなそうとし始めるのだ。…そうだったのか、と思った。この物語の感動的なところは、まさにその覚悟と勢いにある。主人公が為したのは、小僧を助けるために赤犬を生贄とすること、最終場面で妻フランチスカの視線の先を追い、舟から舟へと伝って子供の傍らへ行き、流れに逆らってその船を岸まで運びこもうとすることに集約される。それらが何を契機に、どんな確証があって、どのような逡巡を経て、結果どのように実を結んだのか、あるいは結ばなかったのか、それはわかったと言えばわかったし、同時にやはりわからない。しかし「彼」は砂浜で直射日光をまともに浴びながら、ひたすら塹壕の前に立ち尽くし、ほとんど死に近づいて、塩の柱となってばらばらに壊れ、砂にうずもれ、手に感触をまさぐり、極限状況の暗闇のなかで、夢とも幻ともつかぬ領域において、なすべき目的を果たした。この場面を読んだとき、これで報われたと、そのように思った。この人は、ここに来ることこそが、目的だったと言っても良いくらいだと思った。ここで書かれていることこそが、妄想なのか現実なのかわからない、まったく説明のつかない妄言のようなものだが、だからこそ矛盾なく、取り換え不能なのっぴきならぬ「現実」の手触りで目の前に迫ってくるのだ。
「彼」が、その片目の視力を失う瞬間に何が書かれているのか、そのときに、見る機能が直接損傷を受けて、見たイメージと機能の損傷を一挙に見る。そこで壊れたのは、見ると見られるの関係に固定して循環する永久的な合わせ鏡でもあっただろう。だとすれば「彼」の行為は小僧を救うためでもあり、自分が合わせ鏡の外へ出るためでもあったのだろうか。いやそれは言い過ぎだろうか。たぶん解釈は無理だ、それは理由なくそのようになったし、そのことの理由は説明できないし責任もとれない。
帰郷後の「いないいないばあ」のくだりとか、いささか解釈を誘い過ぎな感じはちょっと気になるものの、ラストシーンも素晴らしかったと思う。最後の夜祭の場面が、冒頭以来ふたたび戻ってきたのは嬉しかった。着物がはだけるのも厭わず、かつての子供時代のように、舟から舟へと伝って目的の舳先へ急ぐ。しかしそこに「彼の兄」はおらず、「彼」に似ている、一人の子供がいるだけだ。
行為が実を結ぶことはけっしてなく、「彼」はただすべてをただ受入れるだけだ。そして最後に魯を突き立てて「彼」が舟を動かす。ここにおいて、ようやく本当の「帰還」が描かれたような印象を受ける。
それにしても、この寄る辺なさ、とりつく島のなさ、無根拠さの感触。血筋そのものの否定によってしか「彼」は愛する対象も家族も見いだせない、そのことをおそらく「彼」自身が認めており、それを引き受けている。(子供は、まるで自分が「彼」を認めたかのような口ぶりで「彼」に話しかける。)ともあれ、その主体と客体あるいは受動と能動の融解してしまったようなところにまで行きついた「彼」は、アイロニーやペシミズムではなくたしかな意志で自分の居場所を肯定しようとするかのようだ。その「在り方」とは何だろうか。いずれにせよ、この小説の最後の場面には、夜のシーンながら、ほんのかすかな希望の明るさが差し込んでるような気もする。その不思議な力強さと明るさとは何か。このことこそが最も巨大な「謎」だと言えはしないだろうか。それはこの作品の著者自身の生理に根差すリアルな手触りとして、そのように在って生きるしかないという確信が、この最後の場面に込められているからではないだろうか。