Amazon Primeで、加藤泰「沓掛時次郎 遊侠一匹」(1966年)を観る。時代劇も任侠映画もあまり観たことがないのだが、これは面白かった。周囲をぎろりと見回し、刀の柄にペッと唾を吐きつつ、四方から迫りくる多数大勢を次々と斬り倒していく"殺陣"のシーンは、掛け値なしに、只々カッコいい。
それはアクションというよりも、型であり見栄のカッコよさであり、仁義や義理と人情を重んじ、自らの力と無力の両方を抱え、自他を憂う…。そのような、渡世人と呼ばれる人格もまた「型」(キャラクター)の表現であろう。それを主演の中村錦之助は、完全に我が身に引き受けて、沓掛時次郎という人物を演じている。観る者はその完璧な予定調和に対して、大いによろこび満足する。
予定調和とは、思っていた通りの出来事が起こり、期待通りの何かが具現化された、そんな喜びというわけでは必ずしもなくて、むしろ私が思っていた、私が期待していたものはこうであったのかと、そのことを事後的に思い知らせてくれるようなものだ。そんなカッコいい表情があったのか、そんな粋なものの言い方があったのかと、それらひとつひとつは、確実に「はじめて知った」ことなのに、画面にそれがあらわれるや否や、観る私はそれら一連の出来事をはじめから完全に知っていて、その瞬間に私が興奮することまで事前にわかっていたと、そう思い込ませてくれるようなものなのだ。