TOHOシネマズ シャンテで、エドワード・ヤンエドワード・ヤンの恋愛時代」(1994年)を観る。検索したら前回これを観たのは十六年前らしい…。

はじまって数分で、中心となるだろう登場人物らが矢継ぎ早に登場し、彼らの関係性や仕掛中の問題が一気に羅列され、物語の諸要素が配置される。のっけからこのスピード。映画の作り手が、観客を信用しきって、あるいは挑発的に、この速度で充分適切にスリリングに伝わると確信しているかのような、目くるめくような速度をもっていて、それだけで冒頭から軽く胸が高鳴る。

各登場人物の動きと連動は、まるでピンボール台を動き回る球のよう、…とは誰もが思いつきそうな比喩だけど、とにかく各登場人物たちはほとんど人間味さえ感じさせない、ほとんど物理現象を思い起こさせる勢いで、出会いやすれ違いを繰り返す。

ただしピンボールならば、はじめに一つの球がショットを受けて、それが他の球へぶつかり、じょじょに運動が波及していくけど、本作の各登場人物らは、皆それぞれに欲望や思惑やジレンマを抱えていて、彼ら彼女らは自ら駆動して運動を引き起こすので、いわば球一つ一つが自らの駆動力をもって、無計画に勝手に動いてぶつかり合うのを見ている感じというのが近い。

そんな中でチチだけは、自らの力で駆動する球ではない。彼女には自身の意見や欲求がない。こうなればいいという願いはあるだろうし、社長であるモーリーの指示をしっかりと受け止めて完遂しようとはするが、要件で相手を訪ねたり、小説を読んだり、携帯電話を置き忘れて取りに戻ったり、置手紙で自殺を予感したり、色々あるのだけど、物事を解決するため積極的に手探りをしようとは思わない。いや、その思いはあっても、事の顛末にどうすれば良いのか、展開が進むごとにただ立ちすくむだけという感じだ。

結末としては、ミンは同僚の失脚に罪悪感をいだいて最終的には退職を決意するし、モーリーも婚約破棄と会社からの離脱を決意するし、モーリーの相手のアキンは新たな恋人を得て芸術への道へ進む期待に胸を膨らませる。アキン側近のラリーは策略を張り巡らせすぎた感ありで自滅したし、フォンの去就もこの先どうなることか。

色々あったけど、最終的にチチとモーリーの関係は、かろうじてそのまま維持されることになる。彼女らの関係は、利害や互いの欲望や打算では測りきれない、昔からの友達同士であることで、他の全エピソードから切り離された特別なものという感じがする。この二人の関係だけは壊れないほうがいいと、おそらくこの映画を観る誰もが願っていた。

ただ、はじめからこの二人の関係だけを特別扱いした、要するに女同士の固い友情の物語だとかそんなことではなくて、この関係だって他同様、特別でもなんでもない、球と球とのぶつかり合いの、単なる物理的な硬度の条件で、たまたまそうなったのだとも言える。

ただし、チチとモーリーがお互いの本心を確認し合う時間はいつも真夜中か朝方の、それこそ特別な光の下において、プールの水が揺らめく反射光をうけた二人の姿は、絵に描いたような「名場面」に仕立てられていて…(本作に「名場面」はいくつもある)。

ぶつかり合いと言えば、モーリーの義兄にあたる作家が、全力疾走でチチの乗るタクシーを追いかけてくる場面。あれもまさに名場面で、ただしそれは言葉と密接に絡み合った「名場面」である。走ってる車に人がぶつかったら、その責任は車にある。しかし急停止した車の後ろに、追いかけてきた人がぶつかったら、それは誰に責任があるのか…。タクシーの運転手が起こった事態に混乱するかたわらで、作家はいきなり自分の仕事あるいは実生活の懊悩がふっきれて「解放」にいたる。このことが果たして「受動的」な事態なのか「能動的」な事態なのか判然としないまま、なぜか「解決」に至ってしまうのが可笑しく、なんとも味わい深い。

そしてやはり鮮烈なまでに印象深い「名場面」はラストだ。やはりチチとミンの関係も、もはやこれまでか…そう思いながら観ている我々の前に映し出される二人の姿。エレベーターのドアが閉じて、ドアが開く。その後閉じて、そして再び開く。これだけの流れのなかに、まあなんてことだろう‥と、陶然とさせられるような出来事が、見事に仕込まれている。