銀座の観世能楽堂で第三十回能尚会。番組は能「養老」、狂言「樋の酒」、仕舞に続いて能「鸚鵡小町」。仕舞に続いて能「葵上」。

しかし「鸚鵡小町」にはまいった。約一時間四十分のあいだ、舞台上に動きはほぼない。百歳を越えた老婆としての小野小町なる人物を、能という形式においてあらわす。「鸚鵡小町」が目指しているのは、おそらくそれだけだ。それがあの、信じがたいほどの冗長性で、舞台に展開されている。舞台端から中央までいったい何十分かかるのかと思うほどの超低速移動、中央に座してからも身体の動きはほぼ認められず、時折ワキの方へ身体を向ける、杖を支えにして危なっかしく立ち上がる、ゆっくりと扇子を広げ、おそろしく緩慢な速度で舞う。それらの、とにかくすべてが遅い。それを美だとか技量だとか型だとか、無理やりあてはめようとするそんな言葉が追い付けないほど、いや違う、そんな言葉を留めておくのが困難なほどに、それらは過激なまでに遅い。観客である我々は、ほとんどとばっちりを食らったというか、この事態の犠牲者というか、とにかく観念して目の前の何かへ付き合わざるを得ない立場を強要されたまま、そこにいる。

これは、自分はいったい何を見ているのか、シテである小野小町の内面、心のなか、頭の中に思い浮かぶものが、音声になった地謡と囃子によって、代替されているということなのか。それとも小野小町が知覚する己が身体、それを経由した彼女の対世界の感触を、その激しい遅延、冗長性によってあらわしているということなのか。そのいずれでもない、何かなのか。いずれにせよ今も観客を集めて催される芸事として、これほど極まった内容であるのは、すごいことだと思う。

もっとも能をきちんと観ることの出来る人にとっては、これはこれで見応えのある何かではあるのだろう。同じ会場で同じものを見ていた母が終演後「どうだった?感激したでしょ」とか何とか、疲労困憊の我々に言いに来たので…。