武蔵野夫人

夫がいて、妻がいて、隣近所の夫婦がいて、あるとき若い甥っ子が居候でやってきて、甥っ子と奥さんが惹かれあって、ふたりの関係を疑ってる夫は嫉妬のあまり、なぜか隣の奥さんに手を出そうとして、隣の奥さんは二人が惹かれ合ってるのにあてられて、甥っ子を誘惑しよう試みて、甥っ子と夫は牽制し合って、隣の夫だけはなぜかのんき。なにしろそれぞれの思惑と、それぞれの読み合い、恋愛感情や疑心暗鬼や嫉妬のエネルギーが、ビリヤード台の玉みたいに相互にぶつかり合って、あちらこちらに散らばり、跳ね返り、再び寄り集まる。恋愛、不倫、隠し事…といった、この手の物語はきっと、これまでの映画、テレビドラマ、恋愛小説と、数えきれないほど無数に量産されてきたのだろうし、もしかすると誰もがもはやうんざりではないかとも思うが、そのモチーフそのものが期限切れするわけではなくて、たとえば浜口竜介とか今泉力哉の仕事など現代の映画作家も、恋愛をモチーフにした画期的な作品をいくつも作っていることを思えば、問題は常にその描き方だろう。

いま読んでいる大岡昇平「武蔵野夫人」はそういった物語の系列に位置付く作品の、今や古典と言えるのだろうか。半分くらいまで読んだところで、後半どうなっていくのかというところだが、ここではどれだけ適切な距離から、ビリヤード台全体の様子が描写できるのかというところに、作品が賭けられているように思われる。それぞれの登場人物たちを均等に平等に、まさに物理運動の軌跡ように描き出しながら、ゲーム全体の動向が冷静に正確に実況中継されるという感じだ。「武蔵野夫人」は一九五〇年に刊行されベストセラーとなったそうだが、こういう語りの、こういうやり方は、最近の小説にはなかなか無いもののように思う。すでに耐用年数の期間が過ぎた形式と言ってしまっても良い気もするが、そう簡単に断言して済ませるわけにはいかないのは、ビリヤード台にあたる武蔵野の各地域、河川、丘陵にまつわる描写が、登場湯人物たちの心象や行動と直接的ではなく適度な距離を保ちながら平行して描かれるからか。彼ら彼女らの狭い視界内に起こる出来事と、彼らが暮らしている土地や自然の大きさとが共に提示されることで、ビリヤード台上の様子というよりは、ジオラマ的な世界に発生しているめまぐるしくも小さな出来事という感じもある。