台北という都市の華やぎ、その場に対する愛情というか、郷愁というか、せつなくなるほど甘美な思い出の記憶…といった感じが、エドワード・ヤンの作品には充ちているような気がする。都市や街並みをとらえた印象的なショットがあるわけでもないのに、映画を見ている間中、その濃厚な街の匂いを、腹の底まで吸い込んだような気にさせられる。

それは、大変裕福な、活気のある、経済や物流がダイナミックに動いてる場所で、若くて、旺盛で、ファッショナブルで、豪華絢爛なマンションに、広々としたリビングとソファーがあって、自動車の車体に夜の照明がぬるぬると滑り流れて、誰もが欲望に溢れていて、昼も夜もなく、ひたすらせいいっぱい動き回っている。エドワード・ヤンの作品には、まずその時間の密度が濃厚で、だからこそ妙にほろ苦く、何がどうというわけでもないのだが、その映画を終わってしまうことが寂しい。

彼らの世界は、常にエレベーターから始まるかのようでもある。開いたエレベータ―から出てきた相手との三十年ぶりの再会とか、意を決して部屋に入って行こうとする決意をくじくかのように、エレベーターから意外な人物が出てくるとか、登場人物たちはかならずドアの向こうにいる。

もちろんエレベーターは、内側と外側の境界でもある。エレベーターホールでドアが開くのを待つ時間。そのとき隣人と軽く会釈をしたり挨拶したりもする。家を出た直後で、外へ出掛ける直前の、それは妙に気まずく手持無沙汰なひとときだ。「ヤンヤン 夏の想い出」のティンティンは、エレベーターホールから隣人の家のなかをつい覗き見てしまい、隣人の娘と対峙し、ドアに立てかけたチェロケースが傾いていくのを見る。あの豪華なマンションのがらんと空虚なエレベーターホールもまた台北なのだ。