Amazon Primeで、井口奈己「こどもが映画をつくるとき」(2021年)を観る。

映画の制作は共同作業で、誰もが別々の役割を担い、重要な役割もあれば、そうでもない役割もあって、苦労が報われなかったり、怒られたり批判されたり誉めそやされたり、それに傷ついたり喜んだり、たぶん集団のなかで、さまざまな思いが交差し合うのだろうが、誰もが個人的な思いは胸にしまって、作業完了に向けて同じ方向に力を貸し合う。

組織における共同作業とは皆そういうものだが、それを子供にやらせたらどうなるのか。子供はすぐ飽きる。飽きると周囲にいっさいかまわず、つまらなそうに、手持無沙汰そうに、ウロウロとそのへんをほっつき歩く。だからきっと、子供に共同作業は出来ないだろうと思いもするが、それはそうでもなくて、大人と同じようにではないけど、決して瓦解はせず、共同作業が進むことは進む。

たとえば5人のチームがいて、2人が飽きてしまったら、作業するのは3人だ。3人は2人を横目に見ながらも、仕方なく作業をするだろうし、2人はキャンセルした自分に固執し、3人とはますます距離をおきたくなるだろう。

ところが子供はそうではなくて、飽きた2人は翌日には飽きてない2人として、まるで昨日のことを忘れたかのように作業に集中したりもする。それは集団の中にやっと自分の居場所を見つけたからとかそんなことではなくて、単に飽きていたことを忘れたから、何となく面白くなったから、である。

飽きたり飽きなかったり、やったりやらなかったりすることは、ふつう大人の社会では認められない。どちらでもいいのだけど、何よりも一貫性を保つ必要がある。そうじゃないとわかりにくいからだ。善人は常に善人で、悪人は常に悪人のままが望ましいのだ。そうじゃないとルールも決まりも、なし崩しになってしまうからだ。

子供のなかにも、すでに一貫性を感じさせる子はいる。それはすでに、子供ではなくなりつつある存在だろう。あたえられた目的のなかで一貫した態度と行為を維持し続けるのが、非・子供ということだろう。非・子供たちの頼もしさ、安定性を見ているのは、不思議と複雑な思いだ。

飽きたり、だらだらと歩いたり、大声で叫んだりしてる子供たちの内面意識と、あの子らが感じているだろう現在から過去にかけての時間の手触りを、頭のなかに思い浮かべる。統一感なく、前後の連鎖もなく因果もなく理由も結果もない、ただ断続的でひとつひとつが衝撃そのものの、かつては自分にも親しかったはずの手触り。

大人で引率者、指導者役の「おーちゃん」と「ふかちゃん」の、なかなかに無力な感じ、おそらく子供らとの距離の取り方や手助けの度合など、あらかじめ入念に計画したうえで取り組んでいるのだろうけど、それにしても、彼ら大人二人のかすかな苛立ちと疲労の匂い、言うこと聞かないくせに、妙に馴れ馴れしくベタベタして背中に乗ってくるような、甘ったれたあの態度。この鬱陶しさと背中合わせな、子供という存在の放つ甘い匂いの愛おしさ。

カメラのファインダーをのぞいて「お!いいじゃん」とか、子供がいっぱしの口を聞いてるのが、思わず笑ってしまう(しかし、おそらくそれは本当に「良い」のだろう。「良いカット」は大人にも子供にも等しくわかるものだろうから)。