小林信彦「天才伝説 横山やすし」を読んでいて思うところとして、きっと一度でも映画作りの魅力にとりつかれてしまうと、とりわけ主演とか監督という立場を一度でも経験してしまうと、以降それ無しの人生なんて考えられないというほどに、映画作りには麻薬的な魅力があるのだろう。(彼にとってそれまで至上のものであった漫才をともすれば忘れさせるほど、やすしは映画の魅力に憑りつかれた、かのように書かれている。)映画制作の現場とは、おそらくフィクションのヤバさのもっとも濃い部分が露呈しているような場所ではないのか。(その撮影現場において、主演俳優はほとんど帝王のようにふるまっていたという。しかしなぜ、彼はそのようにふるまえるのか。それは”やすし”だから、という理由だけなのか不思議だ。)

配給会社の考え、プロデューサーの考え、脚本家の仕事の出来栄え、俳優の所属事務所の考え、周辺の有象無象の思惑、そういうのがグシャグシャになって、ひとつの映画が出来たり出来なかったりする。「映画なんて、作ってからも戦争なんです」と曽根中生は言う。興行が成功なのか失敗なのか、失敗だとしたらその責任は誰なのか、誰が後を引き継ぎ、誰が手を引き、誰が泥をかぶるのか、そういう諸々が台風にように各人の頭に襲い掛かってくるわけだ。

政治力というか、柔軟性とか状況判断とか危機回避力とか、いわば戦争力とでも呼べばよいのか、そのようなパーソナリティを保持しつつ、映画を作るということに対して、「自分の作りたいのはコレ」と腹の中にはっきりと据えていて、それを平然とブレずに持ちこたえることのできる人物って、ほとんど超人的な精神力の持ち主ではないかと思う。所謂おバカさんか、底が抜けた楽天性の持ち主か、災いや不幸をまるでおそれない体質の持ち主か、でもたしかにそういう人って実在するのだと思う。いや表現に関わるなら、多かれ少なかれそういうのは必須なのだろう。自分も含めて世間は小賢しい計算ばかりで。。