タイム・マシーン


長年の怠慢の結果、あちらこちらに分散してる人の連絡先とかを整理したりしてたら、すごいタイムスリップしてしまって、そのまましばらく深みに嵌った。


…作品というものには、作り手の魂が宿ってないと駄目だ。その作品を、作り手が本気で作っていれば、そういう気持ちが、ちゃんと作品に宿るのだ、的な…そんな説があるとする。


なんか程度低!とか言われそうだが、これは実際馬鹿にしたもんでもなくて、本当に、作品内から感じられるある種の気合というのは、あるのだと思う。ってか、まあその気合だけしか無いと、あんま話にならない訳なのだが、それでも僕なんかも、なんだかんだ言っても、告白するけど、そういうびしっと引き締まった何かの力を、どこかで信じている。っていうか、気合が足りないように感じられるような他人の作品を観ると、正直「もっとまじめにやれよ…」とか思う。なんかそういうのは、自分の中にどうしてもある。


でもそんな僕と同じように、作品というものには、作り手の魂が宿ってないと駄目だ、と信じている人というのは、他にも結構いる。で、例えばそういう人と出会い、話をしたりするときもあるのだろうが、そこでの対話が、例えばの話、すごい噛み合って、僕とその人とのフィーリング的なヴァイブスのマッチ感とかも良くて、笑いもあって、意気投合めいて、良い雰囲気になったとすると、そうなればなるほど、…とてつもなく嫌な感じにもなってしまうのである。そういう感じの人々が複数集まった場合、上手く行くと、おおげさだけどそこはほとんど、美の小さなユートピアみたいになる。冗談抜きで、皆が生き生きとしているし、輝かしいライフが充満している。生活とかもひっくるめて、本気で美を志向する人々が集い、一瞬でも結束すれば、そこにおいて、これが僕らのリアリティだ!と、彼らは誰憚ることなく、大声で叫ぶ資格があると思う。


でも僕は、なんかそういうのが、どうしても嫌で、かつてはその場に居た人たちから離れ、そこから距離を置いた事があったように思う。…っていうか、そんな瞬間があったのかどうかは判らないし、何か僕の勝手な妄想かもしれなかったのだが、でもそういう幸福感みたいなのを僕は微妙に恐れていた。なんかそういう喜びに包まれるような事になったら困るなあと思いつつ、でもきっぱり否定的な態度をとる度胸もなく…。

でも実は、彼らはすごい魅力的だったし、ぶっちゃけた話、あれが正解だと今でも思う。そういうのを内輪で楽しんでるだけ、とか批判するのは間違ってる。っていうか別に内輪で楽しんじゃいけない規則とか無いし。そういうのはどうでも良い。楽しく、良いコンディションが保てればそれが最高なのだ。それで、作品は、ひたすら作るのだ。それだけの事だ。だから、彼らは正しい。そして、…彼らの傍らとか周囲に居た多数の女の子は皆、綺麗だったし可愛かったし(笑)…。実際、すごい魅力的な女性が複数集まっている場所があるとしたら、そこは多分、人間が生息する「場」として、極めて適切なのではなかろうか?という予感、というか勘めいたものを僕は感じる。逆にイマイチな女性ばかりの場所は、やはりイマイチなのではなかろうか?(これが僕の「場」に対するささやかな持論なんです!うそ)


だから、あの場はきっと、良い場であったのだ。僕がひとりだけ、対応できない体質だったのだ。だから、僕はわざわざ遠く離れて、あえて不自由な場所に来たのだ。しかしそれは僕にとっては避けられない事だったのだ…でも今となっては皆、遠い思い出だ。もはや時間が経ちすぎたよ。カラスが鳴いているよ!!


そもそも昔、自分がやってるのが「美術」とかじゃない方が良かったと思った事は、少しある。でも所謂デザイナーとかイラストレーターとか、そういうのもなんかアレなので、学生の頃は「製図師とかっていいなあ」と思ったりした事もあった。(でも図法および製図はものすごく成績が悪かった。)まあ、でもそういう言い方は安易な逃避であるのは言うまでも無くて、そういう事ではなく、もっとはっきりと「美術」なんていう事ではなく、「美学徒」になりたかったし、「美道」を極めたい!という事だったのかもしれない。あのとき、そういう意識は無かったが、間違いなくそれに近い事を考えていたのだと思う。まあ、僕は本当に馬鹿だった。でも今も馬鹿だけど、まだそこに居ます。エホバを畏るるは知識の本なりです。