「他人にひたすら迷惑を掛け続ける人間」は今の世に少ないが、昔なら「寅さん」がまさにそういうキャラクターだろう。「寅さん」は大衆から支持され愛された。それを許容する何らかの力によって「寅さん」は成り立っていた。

アウトロー」が大衆から愛されるのは、今の世においてはかなり困難だろう。そもそもどの道が「アウト」なのかがわかりにくいというか、ホンネとタテマエの構造自体が破綻してしまっていて、インとアウトが入れ子状態で、そんな空間において「アウトロー」を自称しても説得力はない、何を根拠にお前は自らをそう規定するのか。支持出来るとか出来ない以前の問題であろう。

ところで、横山やすしである。横山やすしは1944年に生まれ、1996年に51歳で亡くなった。警察沙汰になった数々の事件や不祥事はもとより、先日読んだ本から記憶に残るいくつかを書き連ねただけでも、もはやどうしようもない話ばかり。

・タクシーで急げと怒鳴り運転手の頭を靴で何度も蹴る。
・飲食店従業員やホテルの受付に対して居丈高に振る舞い、気に入らないと怒鳴り散らす。
・店内で泥酔して隣客に絡み喧嘩を売る。
・真夜中に手当たり次第友人宅へ電話をかけて今から店に来いと誘う。
・仕事の場であるテレビ局のスタジオに泥酔してあらわれそのまま番組に出演する。
・酒に酔ってテレビ番組で司会しゲストに絡む。

これらは今の世ならすべてアウトだろう。いや昔だってアウトのはずで、ただ昔と今の世とで、その<アウト感>に違いがあるとしたら、それは何か。

もちろんこんなマイナスの札を並べて、それでも横山やすしは「愛されるアウトロー」だったなどと言うつもりもない。そんなことはなかったはずで、それはそうなのだが、よくわからないが、自分もすでに忘れてしまった、かつての時代においてだけ今とは別の意味合いをもっていた、このような愚行を許容してしまう何か…、それらを包み隠すことができるくらいに大きな薄い膜の感触、強いて言うなら、そんな心当たりをおぼえるのだ。

横山やすしはとくに晩年においてはもはや、大衆から愛され支持されることを望んでいたわけでも期待していたわけでもないと思われるが、自分の行いや自分という生そのものを、大きく包み込んでくれる大きな薄い膜のの気配は敏感に感じ取っていて、それに甘え媚びるための体勢の整えだけはつねに保っていて、そのことで自らの生命維持の可能性を、計っていたのではないか、、。

「他人にひたすら迷惑を掛け続けるようなタイプ」とは「他人にひたすら甘えるタイプ」であり、他人にひたすら迷惑を掛けても許されてしまうとは、つまり甘えるのが上手なのだし、甘えられた相手も、そのことがかすかにうれしい。それを皆で許容してしまえることが、かすかにうれしい。大きな薄い膜は、かつてはそんな無数の思いによって膨らんでいたのではないか。

しかし今や、そういうのはすっかり消えた。たぶんすでに晩年の横山やすしを包み込む膜さえもはや無かった。今こうして、横山やすしの逸話を読み返していると、何とも嫌な、ささくれ立った気分になる(笑ったり呆れたりではなく、ひたすら気が滅入る感じ)。それらひとつひとつが、ただの物騒な暴力エピソードにしか思えず、禍々しい気分しか残らない。横山やすしという人物の独特な行き詰りかた、自らの首を絞めていくような晩年は、独特で緩慢な自殺に近いとも言えるけど、その自他へ向かうものを含め、それらが単独の暴力エピソードの集まり以上のものではないと感じる。それは幻想がすっかり消え失せて、ようやく庇護されることのなくなった暴力の、今ある姿を見たということなのか。