Amazon Prime曽根中生「唐獅子株式会社」(1983年)を観た理由は、横山やすしっていったいどんな人だったっけ、それをふと思い、みてみたくなったから。

カースタントからはじまって、ヤクザ事務所、フランス料理、遊園地、ロックコンサート、歌手養成練習、地下室と水責め、オーディションにカーチェイスに銃撃戦にボート同士の衝突と、まとまりなくガチャガチャとしたエピソードの羅列で出来たような作りで、けっこう面白く最後まで観ることができたけど、いかにも当時の娯楽映画というか、そうそう昔ってまさにこういう感じだったな…とも思った。

横山やすしという人物の存在感の面白さが、ここに活かされているのかどうなのかは、よくわからない。思った以上に身体の小さな人という印象で、でもそこが、かえって真正のチンピラとかヤクザらしさにも見えるから面白い。巻き舌で相手に食ってかかるときのモノの言い方とかは、ああそうそう、こういう感じだったなあと思い、こういうモノの言い方を、今の大阪人は全くしないのだろうかとも思う。

威勢が良いというか虚勢を張り倒してるのだけど、常にどこか不安げで、視線がかすかに動いて周囲を探ってるような、居心地悪くて手持無沙汰な感じ、画面の端のほうに突っ立って、ことの成り行きを見やりつつ、依然として、自分がここに居ていいのかどうか、かすかに戸惑ってる感じ、セリフを言うところに来たら、意外にきちんと、真面目に喋ってる感じ。やるべきことをちゃんとやり遂げたことでの、かすかな安心と満足感。

たぶんチンピラもヤクザも堅気な職業に従事する人も、みんなお手本をなぞることからはじまるのだろうし、そのことに必死で、それへの強い執着で自分を縛るのはきっとみんな一緒なのだろう。そんな自分をふつうにカメラに撮られたら、誰でもそんな当たり前の姿が映るに過ぎないのだけど、それをそのようにはせず、何かしらもう一癖あるように見せるのが、演技とか技ということになるだろう。

横山やすしはもちろん天才的な技をもった漫才師なのだろうが、この映画では、やすしきよしの漫才では見ることのできない、手足を縛られた横山やすしを見てるような感じもするけど、有名なタレントが登場人物に据えられてる映画とは、多かれ少なかれつまりそういうものだろう。

かつ、脇役というのが映画を支えるとは、つまりこういう感じのことだろうな…と思わせてくれるのが、伊東四朗であり丹波哲郎であり杉浦直樹だった。絶望的退屈さと表裏一体な丹波哲郎の安定感。そして杉浦直樹が、とくに前半はすごくいい感じだった。杉浦直樹って、昔からなんとなく好きな俳優だ。でも映画ではほぼ観たことなくて、テレビドラマの印象しかないけど。