青山通りを歩くオシャレでカッコいい二人の後ろ姿を見ていた。シュッとスタイル良くて、まるでファッションモデルように、並んだ黒い棒のように、こころもち肩を寄せ合って仲良く歩いている。

経済的に裕福なのか、最新流行の洋服に身をつつむのが趣味なのか、そのどちらでもあるのか、どんな暮らしでどんな階層なのかまるで想像できない、ただそこに文脈も脈絡も抜きにして、ただ格好よく存在していて、広がるスカートやジャケットの裾をふわーっと風になびかせながら、二人で颯爽と歩いている、そんな二人。

誰かのファッションに目を奪われるとき、様々な文脈や物語の渦中に人が生きている渦中の一断面が、そこにスパッと鮮やかに切り取られて見えたように感じている。もちろんその人物が、自分がイメージした文脈や物語の渦中にいる当人ではないことを承知のうえで、そう感じている。

ファッションとは、それがどのような形式であれ、服にははじめから意味が宿っていて、そこから様々なものが連鎖的に引き出され、その服を着ている人の、出自や性格や仕事を想像させる力をもち、同時にそれらがまったく根拠をもたない、その服から派生したイメージだけでそう見えるということを誰もが理解している。ファッションとはそのようなものだろう。

だから服を着るとは、自らを仮定された文脈に置くことでもあり、あらゆる文脈に根拠がないことを逆手にとった遊びでもあるだろう。

たとえば冠婚葬祭の場でフォーマルウェアに身を包んだ人々の醸し出す雰囲気と、青山通りを颯爽と歩く人の雰囲気は何かが根本的に違う。カッコいい服を着て青山通りを歩くならば、その「颯爽とした」感じこそが大事なのだと思う。もし「颯爽とした」感じでなければ、それが<本物>っぽくなってしまうからだと思う。その服装が、何かの用事あるいは私自身の文脈に合わせた用途で着たものに見えてしまうからだと思う。つまり颯爽と歩くからこそ、それが<遊び>になるのだと思う。

これは自分の偏見だが、青山通り周辺は、いつでも<遊び>の雰囲気が漂っていると思う。遊びには時間や金や自由が必要なはずだ、などという条件付け自体さえ拒んで、あたかもそれがひとつの仕事であり古来からの様式であるかのように、日々をファッションや飲食に明け暮れる、そんな人々の行き交う場所というイメージがどこかにある。

それが正しいのかどうかはわからない。半分は事実だし半分は嘘だろうと思う。ただし格好良い服に身を包み、颯爽と街を歩き、買い物をし、食事をする。そのような生き方があって、それが仮に70年代からはじまったとしたら、条件さえ許すなら、そのような生活を、もうすでに五十年以上続けてる人もいるだろう。

僕は青山通り周辺を颯爽と歩く人々を見て、やはり彼ら彼女らはきっと古いものに否定的なのだろうと、何となく信じ込んでいた気がするのだが、いやそうでもないのかもしれないと、彼ら彼女らもまた、たとえば五十年とかそのくらいの時間的堆積は、すでに身体に染みていて、それはどうしても何かの続きであり、自分の心身さえ歴史性をおびるということに、すでにちゃんと自覚的なのかもしれないと思う。そしてそのことに、それなりの覚悟をきめて、自分の一生に対して腹を括って、ああして颯爽と、歩いているのかもしれないぞとも思う。

いずれにせよ、そんなのは考えすぎで、誰もそんな風には思ってない、それはわかっているとしても、そう思いたくなるというか、それを望んでいるところもある。