スタニスワフ・レムの「ソラリス」を読んでいる。

彼女は存在するのか?という問いはそのまま、自分は正気か?に接続されてしまう。自分が正気でないとしたら、問題は彼女なのか自分なのか、存在とは、私とは何か、この「解決」への欲望の矛先をどこへ向ければ良いのか。

このあと彼女が消えたとして、それは何を示すのか?求める結果ではなくこの事実を、むしろこれまでは狂気であった自分が、ついに正気に戻って見つめていたのだとしたら、彼女の消失は、再び正気を失うことではないのか。

正誤の判断を自分に問うことができない。自分にはその資格がない。

ソラリスの海の描写が、延々と続く。それは壮大で、恐ろしいようでもあり、美しくもある。

おそらく確かだと思われるのは、ソラリスの海は確実に、この私の「内的なもの」を、何かしらの方法をもって参照しているだろう、ということだ。なぜなら彼女は、この私の「内的なもの」の一つであることは、それだけは確かだからだ。

ケルヴィンの苦悩はどこにあるのか。彼の個人的な記憶---妻を自殺させてしまった悔恨と愛情の残滓---に打ちひしがれているばかりではなく、彼は自分自身を律することに対して焦燥をおぼえ、緊張し、いわば自己の生命の危機を感じ取っていると言っていい。

ソラリスの海は人類に対して、認識の挑戦を仕掛けているとも言えるだろう。そしてステーション内の彼らは、すでに破綻の一歩手前、限界領域にいる。

今この場所と自分から様々な機微を読み取り、それを肯定しようとする「哲学」と、ある異様な事態、自分の危機的状況からその要因を知ろうとする「哲学」が、あるとして、もしケルヴィンが哲学を求めるならば、おそらく後者を求めることだろう。それは世界ではなく自己の限界を知ろうとすることだろう。おそらく人はこのような事態においていよいよ、その自己がそのまま世界(認識)と重なってしまうのだろう。