ベルクソン

ベルクソンについての本を読んでいて、それはじっさいのところ、ほとんどわからない…というよりほかないような体験だったりもする。おそらく哲学のほとんどがそのようなものだろうが、多くの要素の積み上げによって独自の論理構造が展開される。その前提となる各要素の紹介部分に対する理解が曖昧、あるいは忘れてしまうので、先の話がわからなくなる。あるいは誤解して、あるいはなんとなくわかったような気になって進んでしまう。それではダメだともう一度前に戻って、このあたりからと見当をつけて読み返していっても、さらに後戻りの必要を感じたりもして、仕方がないまずは半端な理解を自覚しつつさらに先へ進もう、そのあとのことはまたそのあとで考えようとなる。

それでも自分に、ベルクソンを気にし始めるタイミングが周期的に訪れるのは不思議なのだが、その理由はおそらく、ベルクソンに対して自分が抱いている、理解という言葉があてはまらないほどものすごくぼやっとした、しかしそこそこ切実さをともなった感触のようなものが、どうにものっぴきならぬ、ある種のリアリティというか、無視できぬ確からしさをともなって、何かのきっかけでふいに思い出されるからだろう。それで過去の本なども久しぶりにひっくり返して、ところどころ読み返してみたりもする。かつてそれなりに真剣に読んだ箇所をあらためて読んでみて、それが当時は今とまるで違うように解釈していたことに気づいたりもする。

そもそもベルクソンの言ってることは、認識論なのか存在論なのかすら判然としない。人間とはこうです。存在とはこうです。と示すわけではないが、あなたの頭の中に起こってることはこうですと説明するわけでもない。というかそれらが混ざりあっている。これは今更ながら、やはり驚愕すべきことだと思う。世界(あるいは私、意識)と呼ばれる何かが、いったん大きく梱包されているというか、我々が自らを支えているはずの大きな前提が瓦解してしまっているような恐怖感をおぼえる。しかし同時に、強い興奮を感じてもいる。こんな無茶苦茶な話はないだろうと思うのだが、にもかかわらず一笑に付すことが出来ない何か、そのヤバい手触りを感じている。これほど荒唐無稽でわけのわからない話に、なぜリアリティをおぼえるのか。しかもそれが、十九世紀後半以降の芸術たちとひそかに響き合っているような気配もあるから、余計に困るのだ。

もちろんこれ以上、もっともらしいことは書けないのだ。「つまりこうである」という話ではない。そもそもベルクソンとは「つまりこうである」型の話をしているわけではないだろう。あえて言うなら、とにかくひたすら「今ここ、この状態」をあらわそうとしている(「現在」は無いと言いながら…)、だとしたら僕はそこに、強く興奮するのだ。