ゾンビ

XとYの違いを判別出来るけれども、XとYの違いを感じてはいない、それが哲学ゾンビだ。

私はXとYの違いを判別出来るし、XとYそれぞれに違った印象をもつ。「違った印象をもつ」ことが僕がゾンビでない証拠だ。

デジタルカメラもXとYの違いを判別出来る。その点に関しては、僕と変わらない。判別出来るからこそ、それを画像に変換し得る。しかしデジタルカメラは、XとYそれぞれに違った印象を持ちはしない。その意味で言えば、デジタルカメラは哲学ゾンビである。要するに、判別は出来るけど、心とか意識はもたない、知覚という概念をもってない。知覚しようとか、知覚してしまったとか、そういう「溜まり」がない。(「溜まり」というのは、僕の勝手な感覚での表現)。

たとえば、僕は誰かを深く愛したとする。相手も僕を深く愛した、とその相手は僕に言う。そうなのかと思って僕は嬉しいが、しかし同時に不安だ。相手の言葉を疑いたくなる。あなたが僕のことを本当に愛しているならその証拠を見せてくれと言いたい。でもそんなことは出来ない。相手はひたすら自分の気持ちを僕に伝えようとするだけだ。

やがて相手が死ぬ、とする。僕はその亡骸を解剖したとする。しかしいくら解剖しても、いくら肉体を細かく部位に分けても、その相手が僕を愛していた証拠になるものは見つからない。相手の頭部におさまっている脳髄を細かく切り分けてみても、そこに相手の僕に対する思いを示す何かは見つからない。

なので、その相手が僕を愛していると言いながらも、ほんとうに哲学ゾンビでなかったことを示す証拠はない。彼女の言うあなたを愛してるという言葉は、私の言うそれとは違う意味を示しているかもしれないし、それどころか元々意味に結びついてないかもしれないのだ。

しかし僕が、相手を愛していたことだけは確実だ。なぜなら僕には、この胸のあたりに「彼女への思い」という確固たる「溜まり」があるからだ。もし僕の死後に、僕の身体を解剖するなら、この「溜まり」さえ掘り出してくれれば、それをはっきりと証拠立てることができるのだが。

ただし、それを証明するにも、誰に対してなのか。この言葉の向こうにいる相手と私が、ゾンビ同士の通信以上の行いを実施してる保証もないわけだし。