惑星ソラリス

DVDでアンドレイ・タルコフスキー惑星ソラリス」(1972年)を最後まで観た。その人は現実的存在ではなくて、皆に共有された幻想なのだから、たとえばためしに解剖してみれば良いのだとか言われて、さすがに俺の妻に何てことを…と反発もするけど、でもその妻を騙してロケットに乗せてステーションから追い出してしまいもするし、主人公のケルヴィンも相当混乱している。

この原因というか問題というか、謎の中心は、ソラリスの海にあるはずだ。だからソラリスに対して、彼らは有効性を期待できる試みとして、ケルヴィンの記憶を込めたX線の投射を試しもするだろう。その結果、幻想たる妻のイメージは消えたようでもあった。

ケルヴィンにとって、もし自分あるいはこの環境全体が、現在病気であり異常事態であるならば、少なくとも自分はこの病気からの治癒快復を求めない、いつまでもうつくしい奥様の記憶と、うつくしいお母様の記憶に、延々浸っていたい、そう考えてるフシもある。原因はソラリスになく、この私の欲望が私をはみ出して、周囲に溢れ出てしまったことにある…という感じもする。

それはソラリスによってもたらされたものではなく、むしろ私がソラリスに望み、リクエストしている可能性さえ、無きにしも非ずではないのか。ソラリスは、記憶がその人物の内側にあるのではなく外側にあることを知っていて、だから彼の望みをかなえることが出来るのではないか。

…など想像がふくらみもするけど、なにしろ映画そのものが記憶の物質化的でもあるので、だからこそ、この作品で起きていることには甘美さと美しさがあるばかりで、危機感や不穏さがないというか、あっても薄い。その夢からどのように醒めるか?あるいは醒めないままでいるか?その甘くせつない映画の終わりをどこに定めるのか?そんな単純な問いの周りを巡っているだけとも言えるだろうか。