荒川の川幅は広い。橋を歩いて渡るとき、妻と二人でのんびり歩くと、渡り切るまで十五分とかそのくらい掛かってるかもしれない。

いつも思うけど、橋から川面を見下ろすと、これは空を飛んでるのと同じだなと思う。真下が全部水で、それが見渡すかぎりずっと遠くまで続いてるだなんて、ほとんど狂ってる、ありえない景色だなと思う。

明治時代よりも昔なら橋は無かったから、渡し舟で人々は川を行き来していた。生まれてから死ぬまで、一度も川を渡ったことのない人も、きっといただろうと思う。その生涯の何十年かの時間のなかで、ある限定された場所だけに生きて、そこから見える景色だけを眺めた。片側からの川の景色だけを見ていた。向こう岸があることは、もちろん知っていたけど、向こう岸へ行くことや、それを考えることや、想像を広げることすら、その人の仕事ではなかったから、その人にとっては、それで良かった。

その人にとって川とは、行き止まりではなく、関所や国境でもない。駅のプラットホームや停留所でもない。そういう人にとって、川は、流れていく何かではなかったのかもしれない。

たとえば僕はもう、川を流れるものとしてしか捉えられない。川は誰にとっても流れるもの、それを渡るもの以外ではない。そのことはもう仕方がない。あきらめるしかない。川の片側だけに生きて、当たり前のように一生を終えることはもう出来ない。