ジャン=リュック・ゴダールフォーエヴァー・モーツアルト」(1996年)をDVDで観る。90年代はこうだったのかと、いやまさか、本当なの?と、まるで自分が生まれてない時代のように、感じるところもある。ならば私は何時代の人なのか、よくわからなくなる。それにしてもゴダールは、ひたすら世界に対して、政治や暴力への怒りに満ちていて、それは最期までそのままだったのだと思う。

先日見たカウリスマキの「枯れ葉」では、ロシア・ウクライナ戦争に関する報道のラジオ音声が聴こえていた。あのとき僕は、そのような音声が作品世界内に挿入されたことに対して、少し反発を感じたのはたしかで、それを聴いて思わず、おいおい、なんだよそれ…と思ったのは、たしかなのだが。

映画監督の娘とその従兄がサラエヴォを目指す道中で混乱に巻き込まれ、そこで生命を落とす場面。その凄惨さに、言葉をうしなう。ふざけた連中ばかり出てきて、冗談みたいな爆発が何度も起きて、それぞれの立場が入り乱れて、掘った穴の前で銃殺され、服を脱がされ、馬鹿馬鹿しいようだけど、だからこそ、深く気落ちするほどのショックを受ける。土にまみれて投げだされた彼女の素足を見て呆然とする。

馬鹿な、軽はずみな若者たちの愚行でもある。しかし危機的状況の彼女は涼しげな表情で口元には笑みさえ浮かべている。彼女にとってのデカルト、彼女にとっての哲学は、そのまま彼女の心の支えであり、死の危険を前にしてさえも、それは彼女にとって未だに魅力的な問いであり続けている。

彼女たちの最期と、映画監督がカフェでビールを飲んでいる場面が重なる。老いた監督はその瞬間ビールを飲んでいた。

そして、もはやこの世ではない彼岸のような海辺をロケ地にスタッフが集まり出し、いよいよ映画撮影がはじまる。大がかりな三脚上のカメラ、スタッフの着る上着の鮮やかな黄色。窓ガラス越しに透けて見える曇り空と風。

映画監督はおそらく、映画そのものに対して、それを撮影することに対して、ある屈託、ある忸怩たる思いを抱えている。この世界に対する憤りと、映画の力あるいは無力をこの映画は並列させる。そこにはほとんどガムシャラな意地というか、気迫のようなものがみなぎる。美的であるだけでは足りず、知的であるだけでも足りず、何かもっとひたむきな思いがなければ、何も生まれないということへの強い身体的緊張があるように思う。

映画は無力であり、上映は打ち切られるとしても、ひるまずに、もう一度、気合を入れろと。もちろん気合いだけではダメで、笑いやユーモアと軽やかな運動神経をあわせ持って、自分の力を肯定して、死ぬ気でどこまでもぶっ飛んでいけと。