川沿い


家から最寄駅と近傍の駅を通り過ぎて荒川沿いの土手を歩いて千住新橋をわたって川沿いに建つ図書館まで歩いた。図書館まで歩くのも久しぶりだ。今日は冬日としては完璧に近い素晴らしい天気で日差しも暖かくコートの下はシャツ一枚で丁度良かった。


土手から見下ろす景色はいつものことだが、あまり言葉が出てこない。それは圧倒的なものだ。千住新橋の全長は500メートル弱らしいから、そうなると今立っているこの位置から緩やかな下り勾配となって、運動場の芝生や雑木の一帯が広がっているのが見下ろせて、それらを経た向こうが川岸になる、そこまでの距離が、おそらくここから150メートルかそのくらいではないか。で、川幅自体はおそらく200メートルとかそのくらいではないか、で、川の向こう岸からさらに反対側の土手、つまり橋の向こう側の端までが、やはり150メートルとかそのくらいだろうか。


その距離数値の正確さはどうでもいいのだが、しかし自分の立ち居地から150メートルとか200メートルとか、それほどの隔たりというかそういう空間、空気とか水分とかの詰まっているはずの透明な虚空を、現実に目の当たりにしていることを、なぜか信じられないという気持ちに、それらを見ているとなぜかなるのだ。たぶんそれは大きさ、スケール感を感受できる限界に、目前の視覚イメージがほとんどすれすれで迫っていて、だから見ている次の瞬間には視覚システム自体がオーバーフローするかもしれない不安というか危うさのようなものが後ろ側に貼り付いている、そんな視覚体験だからか。いや、そういうこととも違うかもしれなくて、広さとか大きさそのものが認識に浮上してくる体験自体が、通常はなかなか得がたいものというだけのことなのかもしれない。いつもそうだが、この土手から見下ろす下の地面と川と向こう岸に広がる景色によって幾層か連なっているこれらのイメージはとても抽象的なのだ。抽象的としかいいようのないものだ。物理を見ているというか、論理規則を見ているかのようなのだ。しかも太陽の光が、そのときはわれわれの正面からあたっていたので、したがって目前の物質たちはすべてこちら側に向かって影を落としていた。これが景色全体にあたえる奥行き感はものすごい。僕はそのときあらためて影も物だとはっきり感じた。地面と木と影が等しく三者でお互いを支えあっている。まず全体があって部分が吊り下げられたように存在するのではなく、まず部分があり、その力が隣接し合って小さな作用が同時並列的かつ爆発的に倍加し、全体そのものを事後的に成立させているのだ。そういう構成がどこを見ても何に意識を移してもすべてに成立しておりリアルタイムで運動していて、こういうときにはもはや何を見れば良いのかわからなくなって軽い混乱に陥る、ある種の絵画体験と同等な状態となる。そもそも今日は空の青が異常な青さで、雲ひとつないという言葉はあまりにも簡単だが、実際にそういう空だと、これほどまでに青一色という状態がありうるのかと思う。そもそも青一色というのはそれを一色と呼んで良いのか、あるいは青と呼んで良いのか、その言葉の規則そのものの信憑性の方に頼りなさを感じてしまう。何を見たとしてもこれはそう簡単ではないものだぞと思う。しかしこれらを何かにおきかえていこうと努力するというのは、これは人間がそのことに一生かけて努力するとしたら、それに値するのはたしかだとも思った。