やまぶき

渋谷ユーロスペースで山﨑樹一郎「やまぶき」(2022年)を観る。

韓国人の男がいて、子連れの女と共に暮らしている。刑事がいて、その娘の高校生がいる。その娘を好きになる同級生の男がいる。刑事と娘の家には、妻の遺影がある。刑事には愛人がいる。三人の窃盗団がいる。酒場の女がいる。

韓国人の男が働く採石場がある。乗馬クラブがある。刑事が休みの日に同僚と登る山がある。男が女らと暮らす木造アパートがある。高校生の訪れる図書館がある。高校生がプラカードを掲げてサイレントスタンディングする交差点脇のスペースがある。

登場人物らがときに交差しあい、場所と場所が関連づき、物語は流れるのだが、因果や原因と結果が説明されるわけではなく、映画としての佇まいが端正に整っているというのか、観ている者はそれをこの映画の中だけで感受して、映画が終わったとき、ある感情とともに「映画が終わった」と思うしかない、そんな感じだ。

やまぶきという植物が、特定の意味を担ってそうだが、そういうことでもない。それと同じように各登場人物も、そこにいるということ以上の過剰さをもたず、物語や因果の要素にもならず、ただ映画がすすむにつれて、誰もが孤独さというか単独の姿があらわになっていくようで、とくに主人公のカン・ユンスが、乗馬クラブを訪れて馬の鼻先を撫でながらじっとその目を見つめている場面など、説明ではない強い孤独さ、悲劇とか悲壮感ではないほとんど物質的と言いたいような孤独が、そこに映り込んでいるようだった。

真正面から冷徹なまなざしで前をぎゅっと見つめる祷キララの顔は、ちょっと息苦しくなるくらい切羽詰まった感じがあるけど、この人は決して感情を高ぶらせず、この映画自体の支持体みたいになっている。だから後半に祷キララとカン・ユンスが出会う場面は、静かだが息を呑むようなものがある。ここがこの映画の要の瞬間だろうと思わされる。カン・ユンスは諦めたような投げやりな、しかし優しい声で、彼女に語りかける。その言葉が、何かを変えたり影響を及ぼしたりするわけでもないだろう。しかしそこに交差は生じた。

カン・ユンスが全編にわたって素晴らしいのだが、でも冒頭のニコニコ笑顔のままでいてくれたら、どんなに良かったかとも思う。が、そうも行かないのだな。そうも行かない…という本質的かなしみを、かみしめるしかないという…。

(「銀残し」だろうか。昔の黒沢清作品にも見られた、フィルム表面を覆う低彩度の強烈な微粒子の表情を久々にみた。)