三浦哲哉「LAフード・ダイアリー」は会社のお昼休みの時間などに、少しずつ読んでいて、まだ半分とちょっとだが相変わらずのいい感じ。料理研究家とは単なるお料理の先生ではなくて、著作を通して食生活やライフスタイル、つまり生きかたやものの考え方を読者へ提示する、いわば「批評」的な在り方を実践する人たちなのだ…というのを、三浦哲哉の前作「食べたくなる本」で教えられたと思うのだが、本作でもL.Aという土地でゼロから食生活を構築しなければならなくなった著者とその家族が、物価高、アパート環境、食材調達の困難など、それこそ江藤淳から続く「アメリカ適者生存」の呪いかと思われるほどの苦難を乗り越えながら、少しずつLA風土における生活と食の感覚を取得、調整、運用していく。素晴らしいレストランに出会ったあと手に取るのはその店主が書いた書物やLAの食を知り尽くしたフード・ライターの著作である。それは旅の見取り図でもあり、たった今経験した得体の知れない面白さをより味わうために力を貸してくれる小さな助力でもある。それを受けて一気に見通しがよくなることもあれば、あらゆる経験がその見取り図の枠内でしか認識できなくなる弊害もありうるし、ガイドの参照を邪道と見なす向きもあるだろうが、書物がある対象についての誰かの解釈であるという前提に立ってそれを紐解くかぎりであれば、私の経験と書物から得た情報がともに豊かなものとして共鳴することは可能だし「LAフード・ダイアリー」で試みられていることはそのような実践だろう。ゲリラ・タコスのシェフや、LAの著名フードライターであるジョナサン・ゴールドの著作の引用など、この本に引かれる書物の言葉たちはどれもすばらしい。はっと目の覚めるような、新たな何かがはじまるときの興奮をともなうような、これから面白いことがたくさんあることの期待に満ちた、すごく躍動的な言葉たちだ。そしてそんな言葉に促されるうちに、得体の知れない謎でしかなかった街並や雑踏や食品街の景色から、いくつもの魅力を引き出しうる契機があらわれ、LAの独自な食文化がじょじょに姿を見せ始める。こういう感じこそ「批評」のスリリングさだと思う。