性と死

大江健三郎の作品に出てくる登場人物たちの性的嗜好のアブノーマルさというか、オーセンティックとはいえない、かなりの振れ幅をもつ事例の多さとはなにか。「蔓延元年のフットボール」冒頭で、全裸で顔を赤く塗り胡瓜を肛門に挿した状態で縊死する主人公友人のイメージは、その後もあの長い物語中消えることなく偏在していたし、1969年の短編「走れ、走り続けよ」で強烈な自意識と自己承認欲求の塊みたいな従兄も、日本髪に長襦袢で女装して下半身をむき出しにした姿で、全裸のハリウッド女優とペアショットの写真を残し、従兄はやがて全裸化粧の姿で窓から転落して半身不随となり、女優は自動車事故によって「サモトラケのニケ」みたいな姿になるし、これだけでなく他作品にも続々とあるだろう。

彼らはとにかく、なぜそこまで…と呆れるくらいに、性と死にまつわる欲望への執着心が濃厚で、ヘンリー・ミラーなど二十世紀外国文学からの影響もあるのだろうけど、どうもそれだけではない日本固有の事情があるのか無いのか、ちょっと不思議な感じを受ける。谷崎や川端が、世間的にはまごうことなき文学の巨匠でありながら、実態としてあれほど性的なテーマを執拗に描き続けたというのも、私小説のテーマに不貞がしばしば取り上げられることとも、無関係ではないのかもしれないけど、あと三島由紀夫的なものの、大江健三郎内部への反響も思いのほか強いのかもしれないが。

たとえば七十年代後半に村上龍がデビューしたときは、作品中の激しい性描写など話題になったのだろうけど、自分の印象としては大江健三郎の方が、よほどエゲツナイ感じがする。というか村上龍的な「性」は今やまるで風化してしまった感じだけど、大江健三郎的「性」はいまだに禍々しい感じがするというか、読んでいて思わず「なんじゃこりゃ」と言いたくなるくらい、その匂いが場をいつまでも占めてる感じだ。とくに今の時代、これほど強く性嗜好と死をその世界に書きつけようとする作家はいないというか、今ではもう不可能じゃないかとも思う。(ポリティカルコレクトネスがどうとかではなくて、今を生きる人の欲望のありようとして、それはもはや無理なのではないか…と)