コルトレーンのはじめて聴く音源「Offering: Live At Temple University 」より、一曲目の「Naima」を聴く----最近はなぜか音楽全般を最初の一曲くらいしか聴けない----が、しかしこれ一曲だけで、久々にコルトレーンを聴いた満足感があった。
後期コルトレーンはグシャグシャなフリーで激烈なブローの連続というイメージもあるけど、実際はそれだけではなくて、曲によっては思わず引き込まれるような、非常にうつくしい旋律が奏でられることが多い。たしかにフリーだが、その輪郭が優しく端正で、感情の放出と抑制のバランスが好ましい、それがことに「Naima」のような曲においては顕著な感じだ。
ピアノやギターは、ほっといても鳴っているというか、鳴っている状態と鳴ってない状態との見分けがつきにくいというか、静寂のなかにそのまま溶け込むような要素をもともと持っている、つまり自然物に近い楽器、というイメージが自分にはあるのだが、サキソフォンにはそれを感じない。
サキソフォンはどうしても、人間の存在感----呼吸、声、音----に密接な楽器に思え、そんな自らの特性に悪びれることなく、呼ばれてないのに出て来て喋ってる人というか、とにかく何かを付け足さずにはいられない人みたいな、そういう「行動的」な印象を、要するにどこかマッチョな鬱陶しさを、無意識に感じている気がする。
僕はそもそも、はじめてジャズについて知ったときに、テーマの後で演奏者が次々とソロプレイを交換していくという形式に、かなりの違和感をおぼえた記憶がある。そんなあからさまな「出番」が用意されてる音楽って、ひどくないかと。それは曲じゃなくて芸であり出し物でしょうと。まあ実際に聴くことで、そういう疑問はいつの間にか消えていくのだが、ただし今もどこかで、サキソフォンの音にそういう場において大いに張り切りがちな自己顕示欲的なものを勝手に担わせて、それを嫌っているところはあるのかもしれない。
しかしコルトレーンを熱心に聴きはじめたのは、はじめてジャズを知ってそう時間の経ってない頃からで、一時期は熱に浮かされたようにほとんどそればかり聴いていて、いつしかピークアウトして、きっと今後は、かつてのように熱心に聴くことはもう二度とないだろうと思っていたのだが、しかし今日の「Naima」を聴いたら、またコルトレーンにずっぽりハマっても悪くないかもな…とも思った。