ペーター・ハントケ「左利きの女」(1978年)を観る。これは、なんという景色だろうかと、胸がざわつくような感じ。70年代半ばのドイツのどこか郊外だろうか。閑散とした駅のプラットホームを、列車が走り抜けて紙屑が舞う。宅地造成の街並みのところどころに未舗装の地面がのぞき、水たまりができ、空き地に草叢が生い茂っている。人気のない路地、風が草木を揺らすだけで、建物は皆、押し黙っている。冬の日差しが沈黙そのものだ。影は淡いところから最暗部までいくつかの諧調をもって事物を沈みこませている。静止した景色が、かえって時間の動きを感じさせる。ここはほんとうにドイツなのか、僕の育った埼玉郊外ではないのかとさえ思う。埼玉、あるいは母の実家の駅から家までの道のり、あるいはここ足立葛飾区だっていい。時代だって70年代だろうが今だろうが関係ない、誰のどの記憶でもかまわない。どうしてこんな風に見えるのか。

たとえばアケルマンの「アンナの出会い」に捉えられたドイツ、真夜中を走る長距離列車が、閑散としたプラットホームに到着したときの空気と闇、あれもたしかに、こんな景色だったかもしれない。しかしこれほどまでではなかった。なぜこれほど身近な、他人のものではない景色に感じるのかが不思議だ。

編集は小気味よいというか、説明の省略が効いてる。微調整なしの荒々しさ、唐突さの感触に、黒沢清的なものを思い起こさせるところもある。

あの線路脇にあるカフェ。店の外観も、窓際の席もすごい。電車が来るたびに音で会話が途切れてしまう。ひどい立地の店だけど、なんかこういう店、昔はすべてが、こんなものだったんじゃないかと思う。

川も海も出てこない、線路があり、駅があり、勾配のある土地に、宅地が造成されていて、町の中心はそれなりに賑やかだろう。レストランがあり、ホテルもあり、カフェがあり、バス停があり、駅を離れれば住宅地であり、ところどころ、未舗装未整備の区画が、剥き出しになっている。少し遠くには、高速道路の橋脚が見える。

街並み、家々の様子、自動車の駐車してある感じ、何もかもが、ああこの感じだった…と思う。70年代郊外というとき、日本もドイツも、大して変わらないものなのか。

主人公のマリアンネ(エーディト・クレヴァー)の立ち振る舞いも、後ろ姿も、横顔も、ほぼ風景に溶け込んでいると言いたいほどだ。正面からと横顔で、ずいぶんと印象が違い、また押し黙っているのと笑顔とで、もちろん印象が違い、それらは風向きの変化に意味がないのと同じで、前後の因果をもたない。

翻訳の仕事を請け負った彼女に、委託元の男は言う。長い孤独がはじまるぞ、と。脅かさないでよ、と彼女は笑う。しかしある意味、予言は本当だった。昼が来て、夜が来て、次第に彼女の行動は常軌を逸しはじめる。いや、そんなことはない。わからない。彼女のうえに、時間は流れる。その長身のすらっとした身体の、棒立ちに突っ立っているの見て、近所をうろつき回っている足取りを見て、メガネをかけて一心にタイプライターを打つ様子を見て、息子と一緒に冬の山へハイキングに行く後ろ姿を見て、しかしそれはあらわれる風景から、ひとり勝手に浮き上がってはこない。彼女も景色である。

そして、息子シュテファンとその友人の悪ふざけ、彼らの子供らしい、悪ふざけに高じるだけの身勝手さと配慮のなさも、素晴らしいのだ。彼らもまた景色である。

長い三月を経て、四月になり、五月を迎えるまでの話だ。そこで映画は終わってしまう。できれば、夏の姿も見ていたかった。