Amazon Primeサム・ペキンパーワイルドバンチ」(1969年)を観る。冒頭、明らかに正規な軍隊の恰好をした騎馬隊がやってくる。道端には褐色の肌をした子供たちが集まって騒いでいる。子供たちの取り囲んだ砂地の穴のなかにはたくさんのアリが群れていて、そこに幾匹かのサソリが投げ入れられ、アリたちはサソリの身体を喰いつくそうといっせいに群がり、サソリは身をよじりのたうちまわる。子供たちは寄ってたかって、サソリが苦痛に身悶えしているのを見て楽しんでいるのだ。

断続的なストップモーションが掛かり、画面が粗い二諧調になり、オープニングクレジットが挟まれるのが、死ぬほどカッコいい、さあはじまった…といいう感じ。さっきのアリの場面で、死の香りはすでにたちこめている。これから陰惨で残虐を絵に描いたような出来事が目白押しですよ、それを子供のように無邪気に楽しんでくださいと、予告されたかのようだ。

騎馬隊のちゃんとした軍装は、もちろんカモフラージュで、パイク(ウィリアム・ホールデン)率いる強盗団と守備隊との激しい銃撃戦で映画は幕をあける。ほとんど人道という言葉を愚弄するかのような、女子供まとめて誰も彼も一緒くたに皆殺しみたいな、誰もが祝宴の酒のように血飛沫をあたりに飛び散らせながらスローでぶっ倒れていく酷い銃撃戦を経て、やがて強盗団の生き残りたちが撤収し、冒頭の場所を通りかかったとき、なおも遊びに高じていたさっきのこどもたちは、すでに動かなくなったサソリと蠢くアリの群れをまとめて焼き尽くそうと、藁束を重ねて火を点ける。こうして双方等しく炎に焼かれ、かすかに動くものさえ全く動かなくなるのだ。

これは西部劇でもあり、戦争劇でもあり、政治的駆け引き、個人と組織との腹の探り合い、読みあいでもあり、いずれにせよ組織下をはなれては生きて行かれない者たちがテーマでもある。アメリカ人もメキシコ人もそれ以外も一緒くたで、だらしない服装と軍服が入り乱れて、誰がちゃんとしており誰がそうでもないのかも、俄かには判別しがたい。ただ、すくなくとも客観的にみた正義的立場というものは、この世界にはない。

強盗団たちは、べつに自組織に対する誇りもなければ、存続意識もなく、組織下であることで自尊心の保証を得ているわけでもなく、もちろん待遇や稼ぎに満足しているわけでもない。ほんのかすかな目配せや笑いで、いっときの共感的気分をやり取りすることはあるかもしれないが、べつにみんなで一緒にいられることに価値があるわけでもない。死んだらそれまでだから、メンバーはどんどん減っていく。なにしろとにかく、あと一回、デカい一山をあてて、それなりの報酬を得たら、もうこの稼業から足を洗って隠居したいと、今いるメンバーの誰もがそう思っている。

鉄道会社のお偉方、アメリカ軍、メキシコ政府軍、反乱部隊、さまざまな立場があり、強盗団はそれのどれにも属さないが、彼らも生きのびねばならぬ以上、必要に応じてそのどれにでも属する。だから彼らは決して自由気ままではないし、それどころかむしろ大きな組織のおこぼれを吸って生きている零細組織の悲哀さえ感じさせるような存在だ。

強盗団のリーダー、パイクをはじめ、彼の相棒的存在ダッチ(アーネスト・ボーグナイン)、それにウォーレン・オーツにせよ、彼らを追う賞金稼ぎのロバート・ライアンにせよ、誰もがもう、決して若くはない。エドモンド・オブライエンなど老醜の惨めな姿を晒しているといって差支えない。彼の息子だか孫だかは最初の銃撃戦で死ぬし、気の毒な境遇であるメキシコ人のエンジェルは、終盤で凄惨な拷問の果てに死ぬ。臆病だったり経験不足だったり、なにしろ若者はそのせいであっけなく死に、偉そうなやつと、老人とおっさんだけが、なぜか生きてる。

それをそれで当然と思ってるのは権力者、たとえばメキシコ軍の将軍であり、彼の部下はその組織下に従属することで、心身を安寧を得ており、パイクら強盗団は、自分らが生きていることの不思議を、彼ら自身が受け止めきれずに、どこかでもてあましているかのようでもある。

正規だろうが非正規だろうが、強盗だろうが警察だろうが鉄道会社だろうが、ここに見られる様々な立場のどれもが正義ではなく、いわば誰もが対等だが、しいて彼らを色分けするなら、その自らが認識すべき死へ意識の違いということになるのだろうか。

たぶんパイクら強盗団は、クライマックスへ向かう直前、メキシコ人エンジェルを救いたいとの理由で、一同寄り集まって決死の行動に出たわけではないのだろうと思う。束の間の休息を経て、一夜明けて、なんとなくその気になった、一同、目を見合わせて「出入り」を選ぶことに、誰も異存なしだった。その瞬間、これ以上をこの映画は描いてない。とにかくこれは賭けで、それを成り立たせるにはそれしかない。賭けに勝つことが目的ではなく、賭けの体裁をつくる、勝ち負けではなく、我々の賭場を成り立たせる、そんなところだろうか。とても真面目に型枠に準じた、義理だの人情だのがすっかり揮発した先の、理由そのものを失った者たちの最後の出入り。これもおそらくは、まっとうな任侠映画のセオリーだ。

タバコや酒、その他それにまつわるすべてを忌避し、社会から消し去りたいと思ってる人々の、その感情の延長線上で、きっとこの先、ウィリアム・ホールデンや、ウォーレン・オーツや、ロバート・ライアンのああした表情、物腰、立ち振る舞い、この映画の前提としておそらくは無自覚に横たわっているものを、唾棄すべきと忌み嫌う感覚も、少しずつ生じてはいるのだろう(すでに嫌いな人は多そう)。僕はこの映画の魅力は、冒頭や終盤の激しい銃撃戦シーンというよりも、彼らの姿を、ただぼーっと眺めていられるところにあると思うのだけど、まあ、さすがに古いことは古い、それは間違いない。それこそ「昭和」とは、まさにこれという感じ。