御茶ノ水・水道橋・飯田橋

JRお茶の水駅の改札口が、向かって左50メートルくらい先に移設されたのをはじめて知った。総武線水道橋駅で降りた。小石川後楽園は菖蒲が満開だった。かたちも重さももたぬ紫の色彩そのものが、地上から50センチくらいの高さに浮かんで、自力でのたうち回っているかのようだった。色としての鮮やかさが、周囲の景色からあきらかに飛んで浮き上がってしまっていた。入口からすぐのところにある木の枝々に小さな花を咲かせていて、いくつかの花弁は芝生に落ちていて、それらの小さなオレンジ色の鮮やかさは、ほとんど非現実的な発光物が散らばってるかのようだった。

小石川後楽園を出て飯田橋まで歩く。駅前の巨大な歩道橋にはじめて昇ったのだが、昇ってみてわかったことは、この歩道橋はすごい。落ちたら確実に死ぬ、ということだった。いや、なにも飯田橋でなくても、大抵の歩道橋から落ちたら無事では済まないだろうが、しかし飯田橋歩道橋のヤバさは言語を絶する。とにかくあの高さ、そして長さである。交差点の各拠点をを空中でつなぐ回廊という感じで、渡りながら向う岸の様子が見えるのだが、その距離感の遠さがまたすごいのだ。車が四方から集まってきて真ん中でひしめき合う下の車道、さらに神田川の側溝が深く掘られていて、ちょっと下を覗き込むと歩道橋から真下の川面までの尋常ではないすさまじい高さに思わず身がすくむ。目の前の何の変哲もない柵がおそろしくたよりないものにしか思えなくて道端を歩くことができない。こんな高さを歩いているということ、この柵をひょいっと乗り越えれば、あの闇の奥の奈落の底まで、まっしぐらに落ちる、それがありうるということ、そういった悪夢的想像から抜け出せなくなる。目の下がそんなありさまなのに、目線をまっすぐに向ければほとんどぽっかりと何もない広大な空間、向こう岸の橋を歩く小さな人々、そしてさらにその奥には、飯田橋駅のプラットホームに乗客が並んでいる、その立ち位置が今僕が歩いている足場とほぼ一緒の高さだ。まるで蜃気楼か幻を見ているかのようだ。上を見上げれば首都高速道路の裏側が、弧を描きながら空を分断している。何もかもが、すべて今たまたまそのようにあるだけで、ちょっとした衝撃や振動ですべて崩れるのではないかと思う。たとえば今、地震が来たら、積み上げた積木細工のように全部が崩壊するだろうかと思う。しかしこの空中の何もなさと全崩壊が一緒くたになったら、さぞ爽快だろうとも思う。