またACOを聴きたい病に罹り、“砂漠の夢”、“control”、“Lonely boy”を繰り返し聴くだけの休日になる。これらの歌、女性の歌でもあり、母の歌でもあり、相手を気遣う友達の歌でもあり、孤独をおそれない、いやむしろ孤独を自ら選ぼうとするだれかの歌でもある。しかしなぜ僕はこうして、最終的にたった一人になって、それでもひるまずに毅然として荒野に立つような人を好きなのか。“砂漠の夢”をはじめとしてACOの歌詞に何度も出てくる「綺麗ごと」という言葉の重みと刃切れの鋭さ、綺麗ごとなんか聞きたくない、それだったら今のままでいい、夢なんか、かなわない方がいいと言い切る。あなたがいなくても、そのことを楽しむ自分がいるからと。朝っぱらから、もはや滂沱の涙にくれるしかなくなる。

 

これ、かみしめて味わうためにも、ぜひ自分で歌ってみたい。上手い下手ではなく、心ゆくまで歌い通したいとも思う。カラオケ行こうかなと、生まれてはじめてそんなことを考えたりもする。カラオケ。この世で一番嫌いな仕掛けだ。そのはずだった。でも、それを利用したいと考える人の気持ちも、今ならまあ、わかることはわかる。しかし、僕はまあ行きませんけどね、たぶん。

bike share

八月が終わるのか。すごいことですね。

 

会社を出て、ふと、ビルの近くにあるレンタルサイクルを試しに借りてみようと思って、スマホで予約した。とくに目的とか行き先があったわけではなくて、単にその仕組みを試してみたかっただけ。自転車で適当に桜木町駅あたりまで行ってみようかなと、思ったくらいのこと。それで駐輪場に着いたのだが、どうも指定された番号の自転車が見当たらない。おかしいと思ってよくよく見てみると、どうも僕が予約したのはここではなくて別の駐輪場にある自転車だったらしいことが判明。予約は20分以内に指定の自転車にキー入力しないと無効になるのでどうしようか迷ったが、まあ、その自転車がある駐輪場までもうすこし歩いてみるかと思って、ここから少し先にあるはずの駐輪場を目指す。しかし思いのほか距離があって、途中うっかり反対方向に行ってしまって戻ったりもして、なんだかなあ、何やってんのかなあとか思いながら歩いているうちに次第に疲れてきて気分も澱んできて、それでもようやく地図ならここらへんのはず、という場所にまでたどり着いたのだが、あれ、どこにも駐輪場なんてないじゃん、なんだこれ?と思ってあたりを見まわすと、どうも車道の反対側にある柵の向こう側がそれらしい。ここから車道の反対側に行くには、今来た道をかなり大きく後退して交差点の信号を待った上で横断歩道を渡るか、目の前のスロープがとぐろを巻いてるみたいなやたらと長くてでかい歩道橋をわたらなければいけない。うーん、しかし目的もなくなんとなく自転車に乗りたいというだけで、仕事帰りになぜこんなやたらと歩き回っているのか、これでさらにあそこまで行って、今更何が楽しいのかと、ほとんど不条理な何かを感じ始めて、もう今日はやめよう、ここまででいいやと思って、そのまま駅に向かうことにした。まあ結局は、駅に向かうためにも目の前の歩道橋に上らなければいけないことには変わりなかったのだが。

現実

2006年頃にここに引用した保坂和志「羽生  21世紀の将棋」を読み返していて、今の興味に引きつけてところどころを書き換えてみた。しかし文意というか内容はほぼ変わってない、はずと思う。

 

https://ryo-ta.hatenadiary.com/entry/20060715/p1

最善の手というのは、考えるものではなくて見つけ出すものなのだ。それは人間の主体性に任された自由な手順なのではなくて、局面に隠されている(=既にある)手順なのだ。

 

将棋と音楽はどちらも固有の法則を持ち、それに乗って動きはじめたら、個人の「こうしたい」「こうしたくない」という意図を越える。

 

どう指せば「私」がよくなるかではなくて、この場所で両者が最善をつくすとどうなるかということ。

 

悪いと自覚していても最善の手順を指す事。

 

2400メートルの競馬で、逃げ馬が2300メートルまで先頭を走っていても、最後に後から来た馬に差されてしまえば、逃げた馬を「2400分の2300は勝っていた」とは言わない。形勢判断とは、たんに逃げ馬が先頭を入っている様子を示しているだけのことなのかもしれない。

 

ひとつの基盤上で、性質の異なる計算が錯綜して、何事かが決まろうとするとき、これらの要素を、明快に、誰もが納得するように、客観的に、評価する方法はない。それはたとえば、絵画を線・色・構図・題材・・・・・・etcの要素に分けて、点数制にしてみても何の意味もないことに似ている。

 

重要なのはまず、両者が間違えずに最善の手順を尽くすことだ。それゆえ、両者の想像は、ほぼ完全に重なり合うことが望ましい。ただし「完全に重なり合う」ことはない。

 

「想像は、現実をを越えることはない」ないし「想像は現実に現れる局面の要素を把握しきれない」となる。

 

しかし、何故そうなるのか?

 

理由はおそらく、"想像"がかなりの部分、何手かワンセットの"手筋"の組み合わせによってできているからだろうと思う。

想像された流れが"意味"をもってしまっているために、現実でありうるすべての出来事の中から、意味に沿わない流れが思い描かれにくくなっているということなのだろうと思う。

 

しかし、現実の姿を見れば、それまでの想像の流れの意味と切り離して考えることができる。"意味"に縛られない分、現実に現れた局面の方が要素が複雑であり、豊かだと映るのだ。

制度

先のことを思い浮かべないでいるのは難しい。想像しない人間などいない。しかし私の想像はいつも、自分勝手で自分に都合が良くて思慮の足りないしょうもないものばかりだ。自分の視界からしか見ようとしないし、見えないから当然そうなる。そしていつも自分の想像のつまらなさに後で気づいて失望する、そればかり繰り返している。しかし浅墓な自分に失望するだけだけで、現実に失望するわけではない。やって来る現実はいつも、豊かで多様で解釈の余地にあふれていて、笑いも涙も怒りもあきらめも一緒くたになっていて、それがもっと全然別の色合いと手触りをもってやってくる。現実がやって来たあとには、先の想像など跡形も残ってないし影も形も無い。だから、基本的には現実主義でなければいけない。その場に横着に座り込んだまま想像するのではなく、常に現実を呼び込むような心の状態を保てるか。

 

たとえば「小早川家の秋」の未亡人を演じる原節子が、「このまま、一人で生きていく方法が、あるような気がして、それをやってみたいの。」と言う時、これから一人の女性が、近代の自立した人間、一人で生きていくことができる人間に変わろうとする瞬間をたった今見たような気がして感動するのだが、橋本治はこう言う。

 

人間というものは、下手をすると「自分は一人でもなんでもやれる」とか「なんとかやれる」と考えたがる生き物である。それを「自分でやる」と思う人と、「他人にやらせる」で分かれはするけれども、「自分のすることなんだからなんでも思い通りになる」と思う心の前に立ちはだかるのは、思い通りにならない「他人」という存在である。普通の他人なら「あっちが間違っている」と断定しきれてもしまうが、恋愛の相手になった他人は、その根本に「相手が好き」という感情があるから、否定しようとしても否定しきれない。恋愛というものは、「なんでも、一人でやれる」という人間の世界と対立して、その修正を迫るようなものだから、「自立」というような近代的な考えと衝突する運命にある

恋愛というものは、そう思い込まざるを得ない人にとっては、「相手の前に膝を屈する行為」である。しかし、そう考える人は、実のところ、「自分の恋愛感情に屈する」ということがいやなのである。そんなことは二、三十年前に始まったことではなくて、千年も前からそうなのである。

 

だから恋愛とは近代型システムでは解決できない問題なのだということ。出会って、付き合って、セックスして、結婚して、というのは、恋愛ではなくて制度で、ほとんどの近代人は恋愛を必要としないし一生恋愛せずに制度に従うだけなので、それで大体OKなのだが、もし原節子があのあとで恋愛するとしたら、それはまあなんというか「・・・それは台無しですなあ」という気分にもなるし、それこそ近松物語のように地獄へ一直線というのは極端にしても、橋本治が恋愛に必要だとする口実でありドラマであり陶酔の能力をいうのを、誰もが充分に有するわけではもちろんない。原節子がそんな恋愛を生きることができるとは思えない。近代というのはほとんどの人にとって、息を潜めて生きるというやり方がもっとも無難と教えるような制度で、でもそこから零れ落ちる人々にとって、そんなのは冗談じゃない、と言いたくなるような制度でもある。

ゆとり

水泳して帰宅、電車の中ではさほど疲れてないと思っていたが、駅から歩いているときに思いのほか全身に澱をまとったような心身状態で、項垂れたような歩き方になっていた。蒸し暑さがなおさら堪えた。酒屋に寄って酒を買うとき、カウンターで店主と喋っている女性がいて、その女性が僕に気付いて、あらごめんなさいと言って会計の場所を空けた。話好きの客が多い店なのでそういうことはよくあることで、僕もいつものように、いいえ、すいませんと応えたのだが、その言い方が自分でも意外なほど抑揚がないというかつっけんどんというか、なにしろちょっと機嫌悪いですか?(いいえそんなつもりじゃないです)・・・みたいな態度になってしまっているように思われて、それでもそう思っている自分に相変わらず纏いついてる疲労感はいかんともしがたく、やれやれ疲労というもののもたらす弊害、ゆとりをなくすというのは、まさにこれだな、困ったことだ、何を差し置いても、自分の心身の余裕確保というのを最優先すべきかもしれない、それができるうちはそうすべきだろうな、そうじゃないと自分も周囲もみんな幸せから遠のく。しかしそれさえ出来なくなる、そんな余裕さえ失くしていく可能性もあるのだろうか、そうかもしれないな、となると、ますます道は険しく厳しいのかもしれないな、と思う。

眠り

電車の座席に座っている若い男性、でかいスーツケースを足の間に挟んで、がっくりと首を前に倒して眠っている。両手で取っ手を押さえているので、まるで何かに向かって祈りを捧げているような格好だ。Tシャツを着た上半身はせわしなく前後に移動して、体勢が崩れそうになるのをかろうじて抑えている。二の腕や背中の筋肉が、小刻みに動くのがわかる。電車が揺れるたびに、まるで振り子人形のように、ガックンガックンと上半身を前後に揺さぶり続ける。その様子は、緩めのヘッドバンギングと云いたいほどの勢いがあってかなりの迫力。そこまでして眠れるものかとおどろくほど。これほど躍動的な眠りがあるものか、いや若い人の眠りとは、むしろこういうものなのだと思う。眠りと死は、ぜんぜん違う。あの屈強な身体をねじふせてしまうほどの力が、死であるわけがない。眠りはそれ自体で力だ、力というよりも、欲望といった方が近いか。

 

何年か前に、会社で僕の隣の席にいた二十代の女性が、お昼休みに机に突っ伏して眠っていて、それが午後になっても目を覚まさずに眠り続けていたので、仕方なく肩を叩いて起こしてあげたことがあったのだが、目覚めの瞬間のその子の様子が・・・。どろりとして、のっそりと目を上げて・・・あれもまさに、若かった、若い生き物の目覚めだった。匂い立つような、むせかえるようなものがあった。そんなことを思い出した。

Windy lady

朝から、死ぬほどの機材と死ぬほどのLANケーブルと死ぬほどの電源ケーブルと死ぬほどのその他色々にわーっとまみれて、ドロドロに疲労困憊して、それでも予定通りではあったので良かったけど、もう俺も年だこんなこといつまでもやってられないという気分にはなった。昼過ぎにミッション完了、近くの店で上司と簡単にお疲れ様会をして帰宅。わが上司は、まさにバブル世代の人。

 

あーあ、何もかも、過ぎ去って行くんですねえ、かなしみが、刃物のように、吹きぬけますね。