逃げ腰

仕事の忙しさから目をそむけていたい、ひるむような、避けるような、および腰の姿勢をとり続けていたい。当事者ではありませんという態度でいたい。無駄だとわかっていても、与えられてるはずの権利を行使するかのごとく、かたちだけでも逃亡の身振りをとってみたい。けれどもそんなジェスチャーを示すことをあきらめて、仕方なくまともに取り組むことにした。浮かぬ顔のまま、みんなが集まってるいちばん奥の中央の場所に僕も座ることにした。内心で覚悟をきめて、いったんそうやって決断してしまえば、むしろすべてが早まるし、かえって気分も楽になることはわかっていたのだけれども、お母さんから叱られるのがわかっているのに朝いつまでもグズグズしてる小学生のように、往生際の悪い性格なのは昔からなのだった。

コート

薄手の黒いコートを買ったのが1998年の秋頃、就職する直前か直後だったのをなぜか今でもよくおぼえている。そしてそのコートを今もまだ着ている。二十年以上の年月を着用していることになるが、たしか十年前に一度修繕をしている。袖口がボロボロになり、黒色の生地が破れて、中の白っぽい内生地が露出して、かなり目立ち如何にもみすぼらしい状態になったので、袖自体を1センチくらい切り詰めたのだった。で、そこからさらに十年が経過したわけだが、今の状態がどうかといえば、もはや手の施しようがないほどひどい。袖はもとより、ポケットの口、前裾の先端など、隠しきれないほどのほつれと破れに見舞われている。まともな感覚なら、これほどボロボロになったコートを着用するのはためらわれるだろうが、僕は着ている。じつはアクリル絵の具の黒(ランプ・ブラック)を筆にふくませ、破れ目の生地に丹念に塗り込み黒く染めてあるのだ。これで遠目には、わりと老朽感が誤魔化せている。もう少し寒さが厳しくなるまでは、このまま着続けてしまおうと思っている。

…しかし、何でもかんでも「描いて」誤魔化して人の目を欺くと云うのは、それがかりに芸術家の手法であるなら、手筋の悪いタイプと言えるだろう。本来なら「描かない」を尊重すべきだし、そもそも誤魔化す手段として描いてる時点でダメだ。(若いときほど、手数でなんとかしようとする。手数で成果を出すのはごまかしているだけで、本質を突いてない可能性が高い。)

土曜日に行ったレストランでは、注文するパスタの量を10グラム単位で指定できるのだが、我々はこの店に何度来ても自分たちの適量が何グラムだったのかを忘れてしまう。前に来たときは、たぶん150グラムずつでお願いしたんじゃなかったか?で、多かったよね?だったら今日は100グラムにしておくか?と決めるのだが、それが間違いで、実際は前回も100グラムずつだったのだ。各々100グラムでは多いのである。正解は、150グラム一皿を二人でシェアすることなのだが、注文のときに、毎回それを忘れてしまって、同じ間違いを繰り返しているのだ。もちろん100グラムなんて少ないと言う人も多いだろうけど、その他の前菜二皿くらい合わせると我々には多すぎるのだ。まあ年齢と共に食は細くなっていくものだろうが、最近はアラカルトで注文するにも、あれもこれもと頼みたがる自分ですら、量が心配でメインの注文を躊躇することがある。

しかしその前夜、たしか金曜日は、時折やってくる「肉を食べたい」欲望を満たすため、あえて二百グラムもの牛肉をスーパーで買って帰ったのだった。自分が一人で食す量としてはあきらかに多すぎるのだが、そういうときのテンションは夕食ではなくて明らかに個人的謝肉祭的な宴であるゆえ、儀式を成り立たせるための最低分量が必要とされるのだ。ただ僕の場合牛肉はアメリカやオーストラリア産の安価な肉で充分で、むしろ国産の霜降りよりもそれらを好む。これを塩胡椒だけでフライパンで加熱して、それに大量のルッコラとかベビーリーフなどの野菜を大量につけ合わせる。ほとんど緑色の葉の中に肉が埋まってるような状態にしてそれらを一緒に食べる。ちょうどカツオの刺身に大量の玉ねぎの薄切りがぜったいに欠かせないのと一緒だ。玉ねぎを大体一個分まるまる薄切りにして皿に敷き、切ったカツオを上に乗せ、そして摺った生姜とやはり大量に刻んだネギを乗せる。とにかく大量の野菜が必要なのだ。肉も魚も野菜の付け合わせくらいに思ってる。昔はそうでもなかったのだが、最近はこれ以外の食べ方を考えられない。

ちなみに他家ではどうだか知らないが、うちでは自宅での食事にワインを合わせる場合ほとんど白ばかりになる。二人の嗜好のせいで肉料理は豚肉、鶏肉の占める割合が多く、赤に合わせたい味わいはあまり食卓に上がらない。そもそも何なら赤に合うのか、その好みや考え方は人それぞれで自由勝手だが、牛肉を焼くみたいな今回のようにストレートな料理でなければ、しいて言えば酒、みりん、砂糖、醤油を多く使った色の濃い煮物、照り焼きとか、ある種の中華料理とか、すき焼きだとか、僕ならそんなところを思い浮かべるくらいで、それでも別に、白でかまわないといえばかまわない気もする。しかし肉を焼くなら、そのためにわざわざ買ってきたなら、希少なチャンスなので一緒に赤ワインも買う。買うのだが、べつに張り切って購入するわけではなくスーパーに並ぶ安物テーブルワインから適当に選ぶだけだ。それだと生産国も品種もあまり参考にならないし期待できないのは承知の上で、肉に合わせるならあくまでも僕の嗜好的には、せめて甘味の勝ってるようなやつは避けたくて、ふくよかさが予感されるチリあたりのやつは避けて、安物らしく余韻も広がりも小さくてかまわない、頑迷に閉じていてくれていい、ただしきりっと口腔内に厳しく広がってほしい。…などなど考えはするけど、でも大抵、そんな願いはかなわない。そもそも赤を買う経験が少ないから勘が働かないのもあるけど、まあ、煩いことを言うならもっと金を出せよということでもある。せめて三千円代くらいなら、まあそれなりに納得なやつはあると思われる。

吹奏楽

近所に中学校があって、日曜日の午後、おそらく吹奏楽部であろう各種楽器の練習をしている音が漏れ聴こえてくることを以前にも書いたかもしれないが、今日も買い物の途中で、けっこうはっきりと合奏の音が聴こえてきて、これ、近隣住民のみなさん、昨今こういうのいろいろうるさい人もいそうだけど大丈夫なのだろうか、でも勝手な想像だけど、このへんに住む人達は、わりあいおおらかというか、今どきの日本人的排他性のうすい、さほど神経質じゃない感じがあって、その印象の根拠としてはわりと道端に猫が多いことで、みんな飼い猫だろうが、道端とか学校の柵の向こう側とか駐車場の空いたスペースとかに、何匹か集団でたむろしていることも多く、かかる状況が許容されるにも、昨今それなりに簡単ではないだろうと想像されるからなのだが、それはともかく吹奏楽だが、あれは聴くたびに、なかなか良くて、やってる曲は歌謡曲吹奏楽アレンジされたような他愛もないやつだけど、それでも管楽器の、音の質感の違いがきれいに溶け合わさって、主旋律と通奏音、主役と脇役との関係、強弱、大小の、絡まりつつ緩やかに流れていく音楽の流れに、つい僕は感じ入ってしまい、管楽器のオーケストレーションというのは、じつに良いものだなとつくづく思う。ほんとうに良い、良いけど、…しかしこの演奏、ちょっと上手すぎないだろうか?と、ふいに気になる。もちろん超絶的な技巧とかそんな話ではなくて、ゆったりとしたテンポの、如何にも中学生の吹奏楽ですという感じには違いない、しかしあまりにも破綻なくなめらかに進行する曲を聴いていると、中学生ってこんなに楽器の演奏が上手いものだろうか?もうちょっと素人臭く聴こえても良いものじゃなかろうかと、疑念がふくらんでくる。それで妻に、これってほんとうに中学生がやってるのかな?と聴いたら、え?そうでしょ?とこともなげに応えるので、…まあ、そう思うのが妥当だが、でも聴けば聴くほど、全体が一致して整っていて破綻がなくて、元気も個性もきちんと抑制された大人な演奏に感じられて仕方ない。いやもしかして、これレコードじゃない?録音された模範演奏を再生してるとか、その音がここまで聴こえてきてるんじゃないかな?と言ったが、いや、そんなことないでしょうと否定される。たしかにスピーカーから出ている音とは考えにくい。…再生音なら、さすがにここまで大きく瑞々しく外に漏れ聴こえてこないだろう。だったらやはり中学生たちの演奏なのか、とても上手だな、というか、吹奏楽の演奏技術の上手いか下手かなんてそもそも僕にわかるのか、そこがまず自問すべきポイントである。でもそんな判断より何より、音を聴いて、ああいいねえ…と思えるんだからそれで何よりではないか。だからあの道を歩くのは今後も楽しみだが、ただ、不思議なことに毎度そうなのだが、行くときに聴こえてきても、帰路同じ道に来ると、必ずその練習は終わっている。せいぜい三十分程度で戻ってきているのに、行きも帰りも練習が続いていたことが一度もない。それも、なんとなく不思議だ。

期待過去

季節柄、午後三時を過ぎると光がすでに西日の色合いを深める。公園にも路肩の並木も、今年は紅葉の色付きがまるで中途半端で、色付く前に落葉がはじまってしまった感じがある。おそらく台風や秋以降の気温変化のせいではないかと思うが、なにかみずぼらしく寒々とした景色が、やけに目に付く。橋の上から見下ろす川の流れはいつものままで、冬の空気は濁りなく透き通っているので、見つめる先の遠くの景色にまで厳しくピントが合っていて、冷たい空を背景にしてビル、鉄橋、街並みの線と色面の集合が揺らぎも瞬きもせずに静かに映し出されている。

古ぼけたアパートの前に立って、以前住んでいた部屋を見上げる。今は、別の誰かが住んでいるのか、それとも長らく空き部屋なのか、外から見上げてもよくわからないのだが、もう十三年も経つのに、まだあの部屋が存在していることはたしかだ。不審者っぽいのでやや気後れしつつ、あたりを見回して、裏手にまわって、ぐるりと一巡して、また周囲の景色を見渡して、これらの雰囲気が、かつての自分らにとって当たり前に見慣れた、生活の風景そのものだった、それが過去の現実であったことが今では信じられない、しかし、その違和感を味わうことを予想してここに来ている。信じられないと思いながらも、その感覚自体は、信じているんだなと思う。

ディナーショー

趣味で作ったみたいなシステムを引き継ぐだなんて、なんとも微妙だとKさんは思ってる、そういう表情をしている。何かあったとき、どこまで手を入れられるのか、稼働責任のレベルを、どれだけ正確に要件および見積もりに反映させられるか、こういうぼやっとした案件は、とくにそこが、いやらしいからなあ、友達ノリでいくと火薬庫みたいになる可能性もあるからねえ、Nさんの説明がずいぶん調子いいので、Kさんはそれを警戒し、反感をおぼえているのがわかる。Kさんの性格上、だろうなと思うし、僕だって大体同じ気持ちだが、まあそれでも、なんとかなっちゃうだろうなと思うのもわかる。安請け合いは何時如何なる時でも褒められるべきものではないけど、調子良さをアピールすべき瞬間もたしかに必要ではある。とはいえ、こいつはどうにも粗が多くて、気の進まないところもあるけどねえ、そう思いつつ、ふいに何かを思い出したかの如く、自らの姿勢を脇に反らす。ついさっき始まった議論に、元々僕は、はじめからあまり参加してませんのアピールで、逃げの姿勢をうってみる。まあ逃げられはしないけど、少なくとももう今夜は良くない?みんな帰らない?の気分を出してみる。Kさんは早く帰りたがらない人なので、この人はほっとく。Nさんはとっとと持ち帰ってほしい。だとしたらNさんは土日で資料まとめるのか、かわいそう、でもしょうがない、僕は帰りたい。申し訳ないけど、あなたの事案、がんばってください。よし、終わりの雰囲気になった。帰るムード出てきた。オッケーだ。すると突然、Kさんが机上に折りたたまれた紙片を差し出す。これとこれ、もし行くならどっちに行く?とこちらの顔を覗き込む。みると、横浜のホテルで開催される石川さゆり、と、岩崎宏美の、それぞれのディナーショーの広告である。どちらも三万円以上のお値段で、いや、どっちも行きませんよ、Kさん行くんですか?と聞くと、いや、俺も行かないけどさ、そうじゃなくて、もし仮に行くなら、どっち行く?と云う。僕はしばし考えて、うーん、どっちかって言ったら、石川さゆりかな…と応える。するとKさんは、あ!一緒だ!うわ、僕も!一緒!趣味、一緒だな!そうなんだ!とか言って、嬉しそうに騒ぐ。それでこちらは、やや狼狽する。不本意の思いが胸に広がり、上手く言葉が出なくなる。そもそも何を唐突に、そんなことを言い出すのか、しかし僕は、とりあえず別に、岩崎宏美だって、嫌いではない、むしろ子供のころから、テレビで見ていて、それなりに好きなくらいだった、のだが、でももし、仮にステージで実際に一度見るとするなら、石川さゆりをまずは、順位的には先にしてしまうのかもしれなくて、なにしろそこは、わりに熟慮の必要な、繊細かつ深淵な問題に思われるのだが、まさにそこをあっさりと、しかも唐突にもKさんから「僕と一緒だ!」と言われたのだとしたら、いくらなんでも、とてもいきなりだし、不躾な感じがするし、社会人として最低限の礼節を欠いているようにも思うし、いろいろと歯痒く、気持ち悪い。非常に落ち着かない気分にさせられる。Kさんは続けてNさんにも問う。どっちがいいと思う?Nさんは答える。まあ…どっちかって言ったら、石川さゆりの方ですかね…。その言葉を聞いて、Kさんはますます嬉しそうな顔をする。僕は茫然として、そもそもKさんって、この人、何なの?と、ここではじめて胸からあふれるほどの苛立ちと憎しみをおぼえる。全員、同じカード選んじゃったじゃん、嵌められてんじゃん、そのことに強い嫌悪感をおぼえる。そもそもなんで、突然そんなことを、聞かれなきゃいけなかったのか、さっきまで厄介な提案の話してたじゃん、なんだこれ、べったりと安っぽい油が一様に振りかけられた後みたいな気分のまま、目の前のPCをシャットダウンする。つとめて冷静に、帰りますよーと言って、席を立つ。ちらっとさっきの広告紙を見る。まるで銀座の高級クラブのママさんみたいな、和服とドレスそれぞれを着こなした二人の女性が、各々、キラキラの写真で掲載されている。

年女

横浜、夜景、ベイクオーターの光、ゼロックス資生堂、キラキラ光っている。でももう見飽きちゃったので、なんとも思わない。あのソニーの新しいビルが完成したら、ますます光が増して、このへん一帯、夜なのにまるで真昼みたいになるかも。

彼女は誕生日が僕と一月しか違わなくて、知り合ったのが2010年だから、当時は二人とも39歳だったのが、今となってはとても信じられない。彼女は若く見えるし、あの当時で、すでにそんな年齢だったなんて。もっとも、今でも僕には、彼女が昔とほとんど変わらないようにみえるのだが、それを言うと彼女は、それはお互い同じだけ年齢を重ねているのだから当然、お互いがお互いを見えてないから、きちんとわからないのよ、と笑う。

今年はあまり良いことがなかった、そう彼女は言った。去年からずっと、なんだか変テコなことばかり、納得のいかないことばかり続いたんだと。私はずっと、静かに静観してきたつもりだったけど、ここにきて、やっぱりこれっておかしい、これはへんだ、もうこのままでは続けられない、そう思った。前々から思ってたけど、確信に変わったのが今年ね。だからそれで、もうやめるんだからと思ったから、それ以降、何があってもある程度は、我慢できたところはあるのよ。でもやっぱり、思いはいろいろ、納得できないことはいろいろ、あるわよ、でも、それはそれで、仕方のないこと。

ね。私って今年、年女だったのに、ぜんぜんツイてなかった。なんでだろう。でもあなた、昔のことおぼえてる?十二年前って、どうだった?私、前の年女のときも、たぶんツイてなかった。リーマンショックだっけ?あれってもっと後か。でも、やっぱりすごいバタバタしてたのよ。なんかいっつも、節目でツイてない感じ。みきわめが難しいのね、いつならいいのかわからない。ねえ、昭和の終わったときのこと、おぼえてる?私たち、高校生だったでしょ?あのときは、突然だったけど、今は、最初からお膳立てされて、はい!変わりました!って云って、それで変わったじゃない。あれって、どうなの?なんか、影響あるかな?私ってもしかして、平成がずーっと、性に合わなかったのかな?もしかしたら、三十年、ずーっとイマイチだったのかな。だとしたら、ね?来年からは私、けっこうものすごく、可能性、あると思わない?何があっても、おかしくなくない?今までの貯まっていた素敵なことが全部、一気に戻ってくるのかもしれないって思わない?別に、すごい幸せじゃなくてもいいけど、ふつうにこころ穏やかに、ゆっくりできればいいだけなんだけどね。

あなたがそう思うなら、きっとそうだよ、マジでそう思う。そのはずだよ。そんなもんかもしれないよ。しかるべき場所に来たら、意外にあっさりと、ああこれで良かったんだって思うんじゃないの?来月か再来月あたりにさ。ってうか、もうお正月が来ちゃうね。なんかげんなりじゃない?当たり前だけど、今年が、自分の生涯、これまで生きてきた中で、もっとも最速に過ぎた一年だったよね、それはもう、唖然とするほどのはやさだったね。そう思わない?

そうかもね。今までもそうだったね。十年なんてすぐだったね。