NINIFUNI

真利子哲也「NINIFUNI」(2011年)を観る。冒頭から、国道沿いの景色が延々とつづく。そこで起こる出来事のすべてが、国道沿いという場に呑み込まれていくかのような強烈な閉塞感を感じてしまう。おそらく日本という場所のだいたい七割か八割かくらいが、もしかしたらこういう景色なんじゃないかと想像される。ちなみに自分の実家がある埼玉県も、国道十六号線が間近に通るまさにこの作品にとらえられたような景色そのもの。おそらくこれぞ日本の景色で、ほとんどすべての人にとっての原風景そのもの。この映画の中心にある被写体はこの景色だ。四十二分の上映時間内に起こるできごとは、強盗と練炭自殺とアイドルのビデオ撮影とレッカー移動される自動車。でもそれらすべてを呑み込んでしまう海のような景色そのものがもっとも強いモチーフになってる。

自殺者が練炭に着火するまでの時間は長々とたっぷりとらえられていて、そのことが本作を彼をメインでとらえた映画のように思わせもするのだが、しかし中盤以降、彼は終始、死者として映画のフレーム外にかすかな気配をただよわせるだけだ。自分が生きていた最後の一日と死んだその翌日が、連続した時間のようにつながっているいるけど、死者は死者であって、すでにただのモノに過ぎないのだから、そこに連続性はない。彼の最後の日はあれで終わった。にもかかわらず次の日はやってくる。

翌朝、現場に到着した撮影スタッフはそこに不審な車が停車しており、中で人がすでにこときれているようにも見える状態も、遠巻きに確認しているのだが、わざわざ「発見者」になる労を避けるため、いやそれ以前に状況の詳細を知るのをあえて避け、とつぜんの出来事との無関係さを強引にでも保つために、それをあえて見なかったことにして予定通り撮影の準備を進め、滞りなく仕事を終えて、やがて現場を後にする。そのおかげで死者はアイドルの女の子たちの嬌声を、車内に横たわりながらその耳に聴くこともできた。いや、死者は死者だから、単にそこに放置されていただけだ。彼はももいろクローバーなんて知らなかったのだろうか。(僕は名前は聞いたことあったけど本作ではじめて見た。)

その後おそらくどこかの誰かによって死者は発見され、彼の車はレッカー車に引っ張られて、前日までと同じように、ふたたび国道を走る。

低生産性

昨晩は遅くまで打合せしながらモニタに映る文書を編集していた。その日のうちに、報告書をまとめて提出しなければいけなかったのだ。本来なら全体がある程度かたまった時点で内容をチェックして、挙げた修正箇所を適宜反映させればよいのだろうけど、状況的にも時間的にもそれが不可能なので、三人がこうして一か所に集まって話し合いながらその場で作り上げていくことになった。非効率的なのは重々承知で、今日の帰りはすごく遅くなるだろうということも覚悟のうえで、はじめからあきらめてるというか腹をくくってその打合せに臨んでいる。

文書作成の主担当が書き上げていくものを、自分ともう一人が都度指摘したり補足したりするという役割分担なのだが、自分はあまり発言もせず、最後にぎりぎり辻褄合わせるくらいの指摘度合でいいだろうと思っていた。時間掛かるのは仕方なくて、せめてできるだけ最小限の修正で行きたいと思っていた。あまり多方向から喋り過ぎると散らかって収集つかなくなるし、多少クオリティ低くても全体像見えたら要所だけ整えて緊急版とわりきって出せればよいと。

しかし完成まではそれなりに難航した。主担当は気持ちに焦りがあるので、いつも以上に文章と自分との距離感が近すぎて、語句一つとか言い回し一つくらいの範囲でしか対象が見えてない、その視野狭窄感が、そばにいるとよくわかる。加えなければならないいくつかのキーワードを入れて、かつ全体の論旨を崩さず、展開を整えるという、たぶん落ち着いてるときなら、わけなく出来ることが、この状況で出来なくなってる。一行か二行の文章さえつながらなくなる。小学生の作文みたいにすらなる。そうかこれほどまでに作れなくなるものかと思う。

自分も決して、論理的人間ではないな…と、こういう場にいるとそれがよくわかる。モデルを頭に思い浮かべて、書き込むべき要素を各部分に配置して、連携させて、そこまで設計したら一気に書き上げていくという手順を、必ずしも自分は取らない、というかそういうのが不得意だと思うし、いきあたりばったりにはじめて、あとで体裁をととのえるパターンを昔から好む。緊急時や非常時には適さないタイプだ。こんな余裕のないやり方はいやだねえ…貧すれば鈍するは真実也。できるだけ、日々のゆとりは確保しておきたいものだねと。

殺されたる側

志賀直哉「范の犯罪」という短編。ナイフ投げの曲芸師である夫が、舞台上から投げたナイフが標的の前に立つ妻の頸動脈を切って殺害してしまったという事件について、しかし舞台上の決定的瞬間を見ていた大勢の観客も、夫と妻を知る関係者も、それが故意によるものか過失によるものかがわからない。そこで裁判官が拘留された夫に尋問して、夫は妻とのこれまでの過去や思いを語る、という話。殺意があったと云い得るのかそうじゃないのか、その決定不可能性というか、ある意味意外な結末に読み手をつれて行く感じの話であるが、この短編のつぎに「城の崎にて」が描かれたというのが、なるほどと思わされる。「范の犯罪」はいわば「城の崎にて」の兄弟のような作品と言えて、おそらく「范の犯罪」がなければ「城の崎にて」の着想もなかった。というか「城の崎にて」の文中に、「范の犯罪」ではその妻を「殺すこと」を書いたが、つぎは「殺されたる范の妻」を書こうと思っていた。それはとうとう書かなかったが、自分にはそんな要求が起こっていた、…とあって、しかし「殺される側」に対する想像力のひろがりが、最終的に「城の崎にて」というかたちに結晶したのは間違いないと思われる。「城の崎にて」の主人公は、物語の最後で、おもいがけず「殺す側」になってしまうのだが、それは「殺す側」と「殺された側」の両方に自分を重ねたということでもある。自分は、助かったわけではない、安全な場所にいるわけではない。すべては偶然の結果だ。その不確実性、不安定性が常に自分を脅かしている。その自覚がどこかに効いている。そのとき「范の犯罪」でナイフを受ける直前の妻の表情がふいにさっと変化して、何か得体の知れないおそろしいものを見たような顔をしたときのことを、読んでいる自分は思い浮かべてしまう。「殺される」側が、そのギリギリ直前に見たもの、決して見ることのできないその瞬間の様相は、そのときの妻の表情から想像してみるしかないと思う。

反文学論

柄谷行人の「反文学論」を図書館で借りて読んでいたのが先週のことだった。。もう辛辣きわまりないというか、ダメな作品を貶すときの言い方がキツ過ぎでそれが面白くて、「反文学論」は1977年から1978年まで東京新聞に連載された文芸時評で、ちょうどデビューしたばかりの村上龍時代の寵児だった頃だ。当時の柄谷行人にとって「枯木灘」を刊行した時期の中上健次であり、すでに大御所ながら最新の海外の批評動向への緊張感も失わない大江健三郎であり、そんな作家の存在感は大きかったのだろうけど、それはそれとして時評の一年余り分を通読すると、小島信夫田中小実昌の両名がところどころで目立つのが印象的だった。もしかして柄谷行人にとっては小島信夫こそが、最上級ランクの「おもしろい」小説家ということだったのじゃないだろうか。

(「おもしろい」とか「だいすき」とか「自分にとって重要」とか「好きじゃないけど無視できない」とか、良いと思った作品がどのように良いと感じているのか、それは人それぞれで、さらに自分ランキングにしたら、どれが上位に来るのか?も、やはり人それぞれだろう。)

栽培

年末にはじめたルッコラの水栽培だが、一か月強の時間を過ぎて程よく成長したので、ではそろそろ…と夫婦頷き合って、翌日はスーパーでピザ生地に生ハムやオイルサーディンやオリーブなど買ってきて、くだんのルッコラもいよいよ食卓に供することとなった。

明日には食べられてしまう。そう思うと、ルッコラが少し不憫に感じる。LED灯の光を浴びながら何の心配もなく呑気に葉を広げている植物が、なんだか哀れに思えてくる。こいつは明日の今頃になったらもうこの世界にはいない。そう思うと、たかが植物とはいえある種の無常感をおぼえる。いっそのこと、このまま食用とせず、鑑賞用とみなしてこのままいつまでも栽培し続けることも不可能ではないけれども、でもそれは間違ってる。やはり食べるのだ。そのためにここまで来たのだ。食べられることで天寿をまっとうする、そんな在り方、むしろそれこそが、生き物本来の正しい在り方だとも云えないか。もちろんヒトも含めて。

しかし、あと十数時間とか、そういう計測可能な、あるまとまった残り時間というのが、とても嫌なものだというのも確かだ。死刑囚が、あらかじめ予告された翌日の執行時間を独房でただ待っているとして、考えただけでも正気を保つのが難しいような、想像を絶した恐怖がおしよせてくる、それはこの世の刑罰のなかでも、もっとも過酷で残酷なことではないか。いや死刑という刑罰の本質的な意義こそが、受刑者に死の時間をあらかじめ与え、そこへと至る時間を認識させ続けることに置かれているということか。

いよいよ執行のときが来て、ついに誰かの手が自分に掛かって、それがおそろしく事務的なゆったりと迷いのない正確な手つきだとして、伝わってくるこの温もりが、この馴染みの感触が、これから自分を処刑するのだとしたら、いま自分はぎりぎりの精神状況のなかで、そこにある種のやすらぎを見出したりもするのだろうか。板前の職人技で、あっという間に各部位を切り取られて三枚に卸される鮮魚のように、身体切断の爽やかささえ感じてもいるだろうか。

ルッコラたちはこうして予定通り、翌日の食卓にのぼった。たいへん美味しかった。食後にさっそく第二弾の栽培準備をはじめた。今回はルッコラのほかバジルもあわせて育てるつもり。

東京干潟

日本映画専門チャンネルで、村上浩康「東京干潟」(2019年)を観る。多摩川河口の干潟で、蜆を取って暮らすホームレス老人を数年間にわたってとらえたドキュメンタリー。

こういうのを見てしまうと、自己嫌悪をおぼえないわけにはいかない。中途半端さの中にとどまったままの日々を過ごして、そのうち生涯を終えるであろう自分をかえりみて、そのことへの羞恥を自覚しないわけにはいかない。

ホームレス生活を送る人物をとらえたドキュメンタリーというのは、けっこうたくさんあるはずで、本作だけでなく他作品(映画だったのかテレビ番組だったかは忘れたが)を、かつて観たこともある。ホームレス生活を送る人の事情もきっと様々だろうが、少なくとも本作のような映像をみて、映像がとらえている人物に自分が感じさせられるのは、考えと行動が、ほぼぴったりと重なった生き方をしている人間のきれいさというか、毅然としていてシンプルで、言葉による説明も留保もほとんど必要としない、人間にゆるされた最大限の本質的清潔さをもって生きている、その眩さのようなものだ。言葉をなくすような、虚をつかれた思いで画面を見つめて、ふと自分をかえりみて、その濁りかた、その凡庸さを思い起こして気がふさぎ、でもこれは、自分には到底不可能なことで、こんなことを書いても結局は助からないどころか、むしろ墓穴を掘るに近いなど、保身めいたことをもくどくどと思って、それでますます気が滅入る。

ある人物を見て、その来歴や過去を聞いて、そこに時代の流れや社会問題を見て、その人物をそういった流れの影響を被った受動態の類例を見ることは大きな間違いだろう。ひとりの人間にそのような因果を見ることほど愚劣なことはない。物語化とは、要するに差別であり思考停止である。カメラがとらえている場面ひとつひとつを、それとしてきちんと見ることしかできない。大事なのは、自分には決して何もできないことを、甘えを捨てて自覚することだ。

この映画とは別のところで聞いた話だけど、あるホームレスが深夜に眠っていたら、いきなり窓から何かが投げ込まれた。びっくりして跳び起きて見ると、投げ入れられたそれは、コンビニ袋に入ったおにぎりやサンドイッチだったそうだ。その人物は怒りにふるえた。おれは野良犬や野良猫ではないぞと。

この話の最悪さは、コンビニ袋を投げ入れた輩が、おそらく自分は「善いことをした」とさえ、思っているかもしれないことだ。相手をまともに見ることなく、少しでも立ち止まって考えることすらなく、自分の稚拙なイメージに矮小化して、そんな自分の枠内だけの自己満足を求めて、くだらない思い付きを平然と実行してしまう浅はかさ。

自分はいつも、このエピソードをおそろしいと思っている。自分がもし「善行」を為そうとして、それがほんとうに「善行」なのか、そんなこと誰にわかるというのか。神様か?突き詰めたら、黙まるしかない。自分には決して何もできないという前提を通り抜けてない行為は、すべて害悪である。誰かを助けることができるという発想自体がおこがましいのだ。社会問題というフレーミングの欺瞞、それはそれでよくわかっているつもりだ。しかしわかっているだけではダメなのである。

こういう調子で書く文章だと、こうなってしまう。みたいな、そういうとこだな。

関西ことば

【ONLINE EVENT】『大阪』刊行記念対談「街の人生に耳を澄ます」岸政彦×柴崎友香の配信を見た。たいへん面白い。笑った。とにかく誰かが大阪弁で喋ってるだけで面白いと感じてしまうのが自分だ。関西ことばのやり取りそのものを聞くのが昔から好きだったけど、近年ますますその傾向が強まった。と言っても漫才のような作りこまれたやり取りとか、それはそれで良いけど、どちらかと言えばふつうの人同士のふつうの対話における関西ことばが好きなのだ。それも、如何にも関西人的とされるような類型ではない、たとえば無口な人や朴訥とした人のあやつる、ゆったりした関西言葉が好きだし、もうちょっと細かいことを言えば、言葉を操作する人の心の中の、関西独特な動きのかすかに伝わってくる感じが、好きなのだと思う。この対談でも柴崎友香が何かを言って、それを聞いた岸政彦がげらげらと笑う。それだけでこっちまで思わず爆笑してしまう。もしこんな会話が居酒屋の隣の席でやられてたら、絶対につられて笑ってしまうだろう。後で思い返して、何がそれほど面白かったのかをあまり思い出せないし、たぶんそれほど面白い「ネタ」が連続したわけではなくて、それどころか、むしろ、とりとめのないだらだらとした昔話の雑談が続いてるだけみたいな感じだったのだが、だからこそというか、聞いてるときはとにかく最強に面白い。たぶん岸政彦のリアクション、げらげら笑いながら相手の話を受けているあの態度こそ、大阪的なのではないかと思う。東京にも似た感じはあるかもしれないが、あそこまでではないと思う。そして笑いながらも内心別のこと考えてるであろう感じも、ああ、そうなんだなあと思う。柴崎友香の昔の話も、話の内容そのものもさることながら、あのテンポ感で、友人たちのセリフを織り交ぜてエピソードを話されるとじつに可笑しい。というか、柴崎友香という人はこんなにたくさん喋る人だったのか、お酒が入ってるわけでもないのだろうに、ほとんど相手の話の途中だろうが腰を折ろうがお構いなしで思いつくままにエンドレスで喋っていたような印象…。お父さんの茶碗が昇り竜である友人の話とか、笑い過ぎてほんとうに死んでしまった。