殺されたる側

志賀直哉「范の犯罪」という短編。ナイフ投げの曲芸師である夫が、舞台上から投げたナイフが標的の前に立つ妻の頸動脈を切って殺害してしまったという事件について、しかし舞台上の決定的瞬間を見ていた大勢の観客も、夫と妻を知る関係者も、それが故意によるものか過失によるものかがわからない。そこで裁判官が拘留された夫に尋問して、夫は妻とのこれまでの過去や思いを語る、という話。殺意があったと云い得るのかそうじゃないのか、その決定不可能性というか、ある意味意外な結末に読み手をつれて行く感じの話であるが、この短編のつぎに「城の崎にて」が描かれたというのが、なるほどと思わされる。「范の犯罪」はいわば「城の崎にて」の兄弟のような作品と言えて、おそらく「范の犯罪」がなければ「城の崎にて」の着想もなかった。というか「城の崎にて」の文中に、「范の犯罪」ではその妻を「殺すこと」を書いたが、つぎは「殺されたる范の妻」を書こうと思っていた。それはとうとう書かなかったが、自分にはそんな要求が起こっていた、…とあって、しかし「殺される側」に対する想像力のひろがりが、最終的に「城の崎にて」というかたちに結晶したのは間違いないと思われる。「城の崎にて」の主人公は、物語の最後で、おもいがけず「殺す側」になってしまうのだが、それは「殺す側」と「殺された側」の両方に自分を重ねたということでもある。自分は、助かったわけではない、安全な場所にいるわけではない。すべては偶然の結果だ。その不確実性、不安定性が常に自分を脅かしている。その自覚がどこかに効いている。そのとき「范の犯罪」でナイフを受ける直前の妻の表情がふいにさっと変化して、何か得体の知れないおそろしいものを見たような顔をしたときのことを、読んでいる自分は思い浮かべてしまう。「殺される」側が、そのギリギリ直前に見たもの、決して見ることのできないその瞬間の様相は、そのときの妻の表情から想像してみるしかないと思う。