ドリーの冒険

数日前から、蓮實重彦「ショットとは何か」を読んでいる。その中で言及されてたD・W・グリフィス「ドリーの冒険」(1908年)をYoutubeで観た。12分のフィルム、グリフィスのデビュー作。樽の中のドリーの運命や如何に。彼女は助かるのか否か、それをショットがいち早く観る者に告げる、それは「かつて一度観たあのショット」が再び出現することによって。…なるほどですね、と思う。

「ショットとは何か」を読んでいると、その著者の内面に依然として燃えているパワーというか、その熱量というか、まだまだいくらでも言いたいことがあるのだと言わんばかりの言葉の総量に驚かされる。もうどうでもいいとか、お前さんに従うよとか、そういうことをこの著者は絶対に言わない。その理由は今もなおこの人物が数々の書物や映画から刺激を受け続けていて、さらに多くの書物や映画に対して強い不満や不徹底を感じ、そのような風土のまかりとおっていることに対する否定感情が今なお激しく燃え盛っているからだろう。

それとくらべて、なんか最近の自分は、あまりにも日和り過ぎ、漫然とし過ぎではないか、もうちょっと気合を入れ直して、もっと色々と、夢中になったり愛したり、ときには怒ったり憎んだり絶望したり、そんな気持をもっと、自分自身に対して焚きつけるべきではないだろうか、と…。

動物曲芸

幼時から「見る」ということは私の執念のようなもので、菊人形、サーカス、奇術、ありとあらゆるものを見た。それは父につれられたわけで、私は「見ることの好きな」父の血をひいた。しかし見るといっても菊人形が機械じかけで動き、ガラスの中の魚が動く水族館、これらの動くのを見ることを楽しんだのだが、そのころの大正十年前後の日本のサーカスだけは子供の目から見ても悲しすぎて、ほとんど笑いのないことがつらかった。最も楽しんだのは天勝の奇術でこれは何回も見た。
(淀川長治自伝 上巻)

そのころの…サーカスだけは…悲しすぎた、それについて考えている。

「笑いがない」とは、それが芸に至れてないからなのか、あるいは、それが芸として煮詰まり過ぎているからなのか。

何の根拠もない想像だけど、それは動物を使った曲芸演目だったのではないだろうか。

動物を使った「芸」には、それがどれほど完成度の高いものであっても、常にギリギリの緊張が流れている感じがする。

今でいうなら、たとえば、猿芝居とか。あれは、いかにも人間臭い仕草でサルが「ボケて」人間が「突っ込む」、そういう関係が成立してるように見える芸だ。ほんとうは、サルと人間の間にボケと突っ込みの応酬感覚はないし、両者が観客の反応を感じ取ってライブ的快感を感じているわけでもないだろう。あれはつまり、プリセットされた機械に人間が合わせた疑似やり取りとほぼ同じで、その自動再生のようなものを見ている。そのことは、おそらく誰もが知っていて知らぬふりをしている、というか、忘れているから笑えるし楽しめる。猿芝居ではその自動再生に瑕疵や綻びが生じた場合、アクシデントとしての面白味は生じえない。それは単なる事故であり、プログラムの停止に過ぎない。ゆえに笑いは止まり、ぎこちなさややり場のない気まずさが生じて、やがて「悲しみ」がおとずれる。

しかし、そのころの…サーカスだけは…悲しすぎた、そのサーカスが、失敗した猿芝居のようなものだったとは考えにくい。

ひたすら根拠のない想像を続けるならば、そのサーカスとは、たとえば完成され過ぎた猿芝居のようなものだったのではないか。

如何にもな仕草、如何にもな態度、これまでに無数の同じ動作を繰り返すことを強要されてきた動物だけが醸し出す、ある感じ。同じ「ボケ」を、ほんとうに一万回繰り返すことを強制させられた奴隷の放つ雰囲気。

人間が動物に強制して動作をプリセットし、それがあたかも人間と動物の共同作業であり心の共有であるかのように見せる、そんな風に見えてしまうことの驚きが、サーカスにおける動物曲芸の醍醐味だろう。

その完成度が低ければ、動物は動物の本性を露呈し、人間は人間の思惑の破綻を露呈するので、芸が未成立となり、笑いは生まれない。その完成度が高ければ、動物と人間は共にお互いの立場の隠蔽に成功するのだから、芸は成立し、人はそのことに驚き、ときには笑いも誘うだろう。

しかしその完成度は、高まれば高まるほど「悲しくなる」。はじめから仕掛けのわかってる取り組みは、その完成度が、失敗しても成功し過ぎても、悲しくなる、そのどちらにも触れない曖昧な領域にふらふらと揺らぐのが、動物曲芸の生命線だ。でもその生命線は、本気で見ないからこそ、効力を発揮する線に過ぎない。

見れば誰にでも、じつはその芸の行き着く先が見える。それは、あまりにも悲しすぎた。

六歳のときはすでに幼稚園にかよっていたのだが、車夫の送り迎えはがんこに嫌がった。しかし雨の日には、母が私をひざにのせ人力車で幼稚園の送り迎えをした。ところが歩いて幼稚園から帰っていると、そこを通りかかった私の家の芸者が人力車を止め、私をひざに抱いて家まで連れて帰った。私はこの母や芸者のひざを私のしりに感じるとくすぐったくてたまらなく、一刻も早く家に帰りつきたくじりじりした。ところがまた、車を止めて「おとこし」(傍点)が「ぼん、のんなはれ」と車夫に私を抱えさせ、車の中のおとこしのひざに乗せられることもあった。すると私はいっそうくすぐったくて死ぬ思いの苦しみをしたのであった。男のひざの肉のかたさをしりの下に感じながら、男の前のものがぐんにゃりとしりにあたるのがわかり、「もう、おろして、おりる」ともがき、おとこしが「ぼん、どないしやはったん」と困った顔をした。私は六歳のことからいろけづいていたのにちがいない。
(淀川長治自伝 上巻)

決して許すことに出来ぬ、憎むべき対象がある。ある理不尽さ、ある不均衡がある。私ではない誰かの絶望的な状況、いまここに私ではない誰かの苦しみが、ほんものの現在としてある。

その一方で、ふいに襲い掛かってきて、いっさいの拒否を禁じられた状態の身体の奥底から、まるで予想もしなかったような快楽の種子が、あらがいがたく導き出されてきて、まだ快感ともわからないその感覚に戸惑い逡巡するような体験がある。

そうあるべきである、それを願い、希求する、認められない、許すべきではないことがある、その一方で、よろこびは、快楽は、それらとは無関係に、たしかにそこにある。希望や願いと快楽は、私のなかに、きれいに区分されてない。まだらに、入れ子状になって、当初の私を、細かく切り分けてしまう。

尻で感じ取るということ。自分が乗っかっている、その下にある得も言われぬものを想像しながら、それを尻と背中になかば強引に感じ取らされるという、幼少時の原始的な性的体験がここには書かれていて、これはほとんど、絵に描いたような典型的な受動体験であり、それはまるで自動車に乗ることの快楽にも、もちろん映画を観ることの快楽にもつながるかのようだ。

というか、映画を観る快楽とはつまるところ、子供が大人の膝に乗せられたとき、尻に感じるものなのではないか。

ラーメン

外食でのラーメンを、もう十年近くかそれ以上の期間、食べてないのではないか。家で、インスタントラーメンを食べたことは、これまであったかもしれないが、それもおそらく数えるほどだ。ラーメン店に入ったことが近年まったくないし、「つけ麺」と称する食べ物を今まで一度も食べたことがないし、おぼろげな記憶による直近でラーメンを外で食べた記憶といえばそれこそ十年近く前に、人に誘われてなかば断りきれずに入った店で食べた、それが一度か二度。自分の意志で行って食べたラーメンとなると、もはや三十半ばの、はるか昔だろうと思われる。たぶん四十歳あたりを境に、ラーメンは食べたくなくなったのだと思う。いや、食べろと言われれば食べるし、食べたら美味しいのだと思うけど、なんとなく自らは食べなくなってしまったのだ。理由はわからないけど、味の嗜好が変わったとか、そういうことではなくて、おそらく食…いや、食事、に対する感覚が、変わったからだと思う。生活に対する食事の比率というか重みというか意味合いが変わった、その時間をこう過ごしたいという、その欲求が変わった。そのことによって、ラーメンの出る幕がなくなったのだと思う。食の嗜好が変わったのではなくて、生活感覚が変わった、逆に言えば、それを必要とする生活感覚が備わって、はじめてラーメンを食べられるのだと思う。

フィジカル

しばらく前にフィットネスクラブの個人会員契約でなく法人契約であらためて再契約した。これで月謝支払いから都度利用支払いへと変わる。すでに入会して五年以上が経つのだが、初期のまだモティベーションが高かった時期は週二度とか三度とかの頻度で通っていたので、それなら月謝支払いの方が明らかにコスト安で良かったのだが、最近のていたらくではまるで無意味なため切り替えた次第。
泳ぐということ自体に飽きてしまったのだなあとと思う。ひたすらプールを何往復もしてるのが作業のように馬鹿馬鹿しいと感じてしまうなら、それはもう飽きてるのだ。三十分間泳ぐという自ら決めたルールを五分か十分省略したとき、その後ろめたさよりも五分や十分早く終われたよろこびの方が大きいほどだ。

自分で決めたルールを自分が遵守することのよろこびがあり、ある条件下で身体に負荷をかけた際のフィードバックを自分なりに分析してさらなるアウトプットとして試すことのよろこびがある。疲労した身体をつつむ不思議な爽快感と脳内の快楽物質がもたらす快感もある。それらはいずれもフィジカルなよろこびで、アスリートやダンサーの超人的技術や能力を見るのもその感覚を呼び起こすことにつながるものだ。

もちろんこういうのを一気に「どうでもいい」と感じてしまう瞬間もある。与えられた条件下で、皆でひしめき合って、誰が速かっただの遅かっただの、前より良かっただの悪かっただの、だから何だと言うのか、そもそもその枠組みを気に入らないのだと。ただ枠組みとしての身体は、これからもずっと--じょじょに衰弱しながらも--わが身体のままであるのだから、それを基盤にしたフィジカルな試行の面白味はひきつづきくりかえした方が良いというか、その枠内をせいぜい楽しく生きようと心がけるよりほか無いのだけど。

納得

スルメイカのワタを使った味噌ベースのソースにイカの身と白菜大根などの野菜と豚肉をくわえた鍋物というか煮込みをつくったのが昨日。イカの味わいがしっかりと活用された、とても良く出来たレシピだと思った。今日はハヤシライスの原型ともいわれるミロトンを作った。タマネギを飴色に炒めてからトマト、牛肉、コルニッションのピクルスの刻みなど入れて煮込む。牛肉とトマトと酸味の組み合わせが、この味わいを作っているのだとわかる。昨日も今日も、あーなるほどそういうことかと納得出来る面白さがあってしかも美味しい。調理方法がそれほど手間いらずなのもいい。

我々の食生活においてヘヴィローテーション参照されている料理本のおもな著者としては坂田阿希子と、寿木けいが挙げられるのだが、今回そのラインナップに今井真美をあらたに加わえたい。『毎日のあたらしい料理 いつもの食材に「驚き」をひとさじ』を購入してから、すでにいくつの皿を食卓にのせたことになるかわからないけど、前述の二品も含めてかなりの頻度になるのはたしかだ。

訂正・追記

「ミロトン」掲載の本は、今井真美ではなく坂田 阿希子・皆川 明による「おいしい景色」でした。訂正いたします。

収納

台所の食器棚脇の狭いスペースに、高さ180センチくらい幅と奥行は30×45くらいの細長い棚を設置した。これで既存の台所用品や食材の収納が大幅に整って、おかげでダイニングテーブルの上に何も物が置いてないすっきりな状態を作り出すことが出来た。これは我が家にとって、かなりすごいことで、今までずっと死に体スペースだったところに、これからは私たち住人二人が、ここに向かい合って座るというシチュエーションを、ふつうに想定しても良いことになったのだ。

とはいえそれは二人にとってまだ生活習慣にない、あまりにも慣れない行為で、そこに向かい合って坐ることを想像するだけで、妙なぎこちなさの感覚がともなうようで、共にそのテーブルに寄りつくことが出来ない、ちょっと距離をあけて遠巻きに眺めているような感じだ。(いや比喩でなく、ほんとうに二人で棚とテーブルの様子を離れた位置からいつまでも眺めている。)

午後から出掛けて、TOHOシネマズ西新井で「犬王」を観た。序盤はそれなりに気を持たせたし、話が進むにつれてこんな無謀な試みにあえて挑戦する勇気はすごいのかもしれないとも思ったが、結局自分にとっては興味の範疇にない(良くも悪くもない)ものに感じられ、途中からほとんどスクリーン内の出来事に関心がもてず、仕方なくボケーっと別の考えごとなどしながら終わりまで過ごした……。