大竹伸朗

NHKで放送していた「21世紀のBUG男 画家 大竹伸朗」を見る。2006年の大規模回顧展から16年が経つのか。大竹伸朗、66歳か。でも外見・風貌が、昔とまったく変わってない感じがする。十何年前と今制作してる作品が、まったく変わらないかのように、本人自身も変わってない。もちろん一見しただけではということで、よくよく細かく注意深く見るなら、当然色々変わっているのだろうが。

老いたとか、年齢を重ねてしまったというのは所詮「周りにあわせた」から「同調した」からに過ぎないのかもしれないな…。

画家のアトリエに撮影用カメラが持ち込まれるとき、見ている側は制作中の作品を見てもいるけど、作家本人の手つきや方法、身体の動き、立って、あるいは座って、壁に立てかけて、あるいは床に寝かせて、あるいは逆さまにして、絵の具の滴たる様子をじっと見つめて、まるで対話のような、作品という非人間的な対象を相手に、説得を続けているかのような態度を見てもいる。古くて小さな椅子や荒々しい肌の床や、白い壁の様子や、そこに立ち込めているだろう匂いや、室温や、空気の質を想像して、それも含めて見てもいる。

大竹伸朗はやはり初期の鉛筆素描がじつにすばらしいと、それを見るたびに思う。たぶんその素描だけでは、画家「大竹伸朗」を決定づけるには足りなくて、おそらく「大竹伸朗」がその作家名において創り上げる諸作品のもつ固有性とは別に、素描の良さはある。

「この素描の質の高さが大竹伸朗の諸作品を支えており、作家の力量を示している」という話ではない。何かを証明したり何かのエビデンスであったりするわけでもなく、単にその素描がそれとして良い。

Out Of Touth

ダリル・ホール&ジョン・オーツの「Out of Touch」は1984年の曲だから、自分は中学一年で、ちょうど洋楽を聴き始めた頃で、当時はFENを毎週聴いていた。あの頃は、ひたすらトップ40を流してるラジオなんて、FENくらいしかなかったような気がする。洗濯機のある洗い場みたいなところにしゃがみ込んで、自分の靴だか上履きだかを、洗剤に浸してブラシで擦って洗っていた、かたわらにラジオを置いて、そのラジオから「Out of Touch」が流れていたのだと思う。その感じを今でもなぜか鮮明におぼえている。ただし今、同曲を聴いても、そのときがよみがえるわけではなくて、あくまでも頭の中に思い浮かべたときだけ、それが浮かんでくる。

しかし、ホール&オーツのことなんて、前にもここに書かなかっただろうか?と思って、自分のブログを検索してみる。最近そうやって確かめることは少なくない。ほっとくと二度も三度も同じことを書きかねないのだ。とりあえず、書いてはなかったみたい。それはそれで意外な気がして、「Out of Touch」のことなんて、けっこう頻繁に思い出すし、でもそう思っているのが、単に今だけのことなのだろうか。

1984年(13歳)、1985年(14歳)、1986年(15歳)なのだ僕は。その頃に聴いていた音楽はどれも記憶の深いところにあるのだけど、とりわけ1984年には、特別な感じがある。「初物」の特別感というか。もう動かしようのないもの。もしその音楽を今さら聴いたとしても、もはやその記憶に直接リンクさせようもないほど、固有な領域に格納されて誰にも触れなくなってしまったもの。

当時、小泉今日子なんて、別になんとも思ってなかったのだけど、おそらく1984年、偶然ラジオで聴いた「ヤマトナデシコ七変化」の歌声に、何かある種の、エロティシズムと、あと言葉にするのが難しい抵抗感、その声の主の、いわば敵対的対外意識みたいな、そういう何かを感じさせられたことがあって、そのときの感じをよくおぼえている。単に「惹かれた」というだけではおさまりのつかない複雑な感じ。

十五歳で、夏休みだった。自室で一睡もしないまま朝を迎えた。ラジオから小泉今日子「夜明けのMEW」が流れてきて、"終わらない夏"と歌っていた。そうなのか、この朝と夜のくりかえしは終わらないのか…。おもてに出て自転車に乗ってまだ明るさと暗さのあわいに沈んでいる裏手の道から中学校手前にある森に向けてペダルを漕ぎ出した。まだ鳥の鳴き声も聴こえず、どこか遠くで新聞配達のバイクのエンジン音がかすかに聴こえる以外あたりは静寂につつまれていたが、やがて気温も上昇して、太陽が輝きだして、蝉も騒がしく鳴きだすはずだった。しかし今はまだ、シャッターが半分だけ開いた店のように、終わらない夏は準備中のようだった。

https://ryo-ta.hatenadiary.com/entry/20130818

目が覚めて、夢を見ていた事に気づく。まだ、まどろみのなかにいる。別にこちらでも、あちらでも、どっちでも良かったのに、と感じている一瞬を、眠気に紛らわせて、ずるずると引き伸ばしながら、ゆっくりさっきまでのことを思い出している。

何度か来たことのある店にいた。グラスで三杯ほど飲み干したあとだった。そろそろ会計しようと思ったが、自分のほかに客は誰もいない。カウンターも無人だ。店の中に、誰もいないのかもしれない。時計を見たら、朝の5時なので驚いた。今が、どういう情況なのかわからない。なんで、いまが朝方の時間なのか。それまで、寝てたのだろうか。耳をすませてみても、波の音が聴こえるだけだ。波が防波堤にあたってくだける音。この店は、水際にあるのだ。カウンターがあって、床があって、背もたれと肘掛の付いた木製の椅子が六脚並んでいて、背後の床は、人が一人かろうじて歩けるほどの幅しかなく、その先から、すぐに水だ。

店を出た。無銭飲食になってしまったが、後できっと払いに来る。またこれからも来る店だから、そのへんはちゃんとする。店主に挨拶して、カネを払うことだろう。乾いた路面を歩く。朝が近づきつつある。ビルの壁が朝日に照らされて真っ白に浮かび上がる。

ヤマトナデシコ七変化」の声。「夜明けのMEW」の夜明け。それは今から25年前のことだ。「木枯しに抱かれて」「あなたに会えてよかった」と記憶の変遷としてはそのように来て、この夏にきて、いきなり唐突に「潮騒のメモリー」で、あの小泉今日子の声が、ホラーのように、当時とまったく変わりなく聴こえてきて狼狽しながら、ついに今生の人生においてはじめて小泉今日子の楽曲を購入してしまった。しかし、声とはいったい、何なのか。これほどまでに、何も変わらないものなのだろうか?聴いてるとほとんど気が遠くなる。

外はまだ、人でいっぱい。夜からの人、朝になってしまった人。誰も家に帰ろうとせず、それぞれがそれぞれの目的や楽しみのために、勝手に、右往左往している。そういう景色を子供の頃に見ると、後にひいて、ああこうして、大の大人が、いつまでも寝ずにじたばたしているのは、なんて楽しい事なのだろうと思ってしまい、それが結局大人になっても直らず、そういう者は夜更かし好きな、夜遊び好きになる。夜遊び好きには二種類あって、淋しいのが嫌いで夜になっても人の近くにいたいタイプと、夜特有の寂しさのなかで、他人と付かず離れず、行っての距離を保ちつつ、しかし眠らないというタイプがいる。後者がおそらく子供時代の思い出をいつまでも忘れられないタイプである。懐かしい夜の、記憶に残っているともいえないような思い出である。

なつかしい、とは、夏の事なのだろうか。語源は、夏かしい、とか、そういうことなのか。

https://ryo-ta.hatenadiary.com/entry/2019/04/09/000000

夢なの。夢じゃない。夜空を駆けめぐる…瑠璃色!

あっち向いてて、だめよのぞいちゃ。停めた車の影で着替えた。だれも足跡まだつけてないひと足お先の砂の上。やったね。全然本気、君に夢中さ。やったね!波乗りみたいに浮気な人ね。男の子って、少し悪いほうがいいの。すべて知っていると思っていた。夜明けのMEW。君が泣いた。僕が泣いた。ねむれない、夏。世界中でたったひとり。ときが過ぎて、今、こころからいえる。あなたにあえて、よかったね。きっと、私。しとやかなふりしていても、乱れ飛ぶ、恋心。内緒、貴方の腕のなか、ほかの誰かとくらべちゃう。からくりの早変り。艶姿涙娘。色っぽいね。まつげも濡れて、色っぽいね。夕暮れ抱き合う舗道。みんなが見ている前で。貴方の肩にチョコンと、おでこをつけて泣いたの。あなたは寂しくないの?離れて寂しくないの?bakaだね。明日また逢えるよと、余裕があるのね。ダーリン、MyLove。意味深ILoveYou。なぜなの、涙がとまらない。あなたを見ているだけ。ねむれない、夏。パジャマ代わりに着たシャツ。ベッドのその上で。きみは子猫の素振りで、誰が悪いわけでも、だれのせいでもなくて、いつも、若さは、きまぐれ。愛を、ごめんね。愛を、ごめんね。もっともっと、もっともっとキスをすれば よかったよね。愛を、ごめんね。君をすべて知っていると、思っていた。

https://ryo-ta.hatenadiary.com/entry/20100424/p1

散歩

小谷野敦江藤淳大江健三郎」をぱらぱらと読んでいて、以下の箇所で声をあげて笑ってしまった。大江健三郎はおもしろいな。

小説が停滞して苦しんでいたこの時期、大江は入水自殺のようなことをしかけたことがあったようだ。夏のある日、江の島に行き、砂浜に座ってポケット瓶のウィスキーを飲んでいると、

僕は水泳に自信があるものですから、沖に一、二時間も泳いでいけば、そのまま帰ってくることはなく、すべての問題はなくなるという気持ちになって、泳ぎ出そうとした。水着に着替えて膝まで水のなかに入って行ってから、「そういうセンチメンタルなことをしてはいけない」という、何者かの言葉が聞こえてきて引き返してきた。
 帰りの江ノ電の入口で、生きているタコを売っていました。それを一匹買ってビニール袋に入れてもらって、電車に揺られていると、タコが(略)全身をあらわして、僕の膝から降りて電車の中を歩き始めた(笑)。みんながタコの持ち主を見る。僕は、できるだけ落ち着いてタコを袋に取り戻すほかない。女の人が「そのようにして、タコを散歩させに行かれるんですか」といわれた。「時間があれば、海のそばで運動もさせます」といったら、「そういうものですか」と感心された。

(『座談会昭和文学史』)

 

家・母・映画

淀川長治「文藝別冊」収録の蓮實重彦金井美恵子対談を読むと、淀川長治は、安保闘争なんて一切興味なかっただろうと思う。そもそもヌーヴェルヴァーグに興味がなかったならば、1968年の5月のカンヌのことだって、まるでどうでも良いと思っていただろう。

淀川長治は生年1909年、父親又七が四十代後半のとき、本妻の姪でまだ十代だったりゅうに生ませた子供である。病身で子供の埋めない本妻のかわりに、りゅうが毎夜又七の相手をつとめた。生まれたばかりの長治を本妻は嬉しそうに抱きかかえて、その三日後に亡くなったという。幼少の長治から見て、老人のような又七とりゅうの夫婦としての組み合わせは異様に思えた。寝室にきれいに揃えられた二人の布団が並んでいるのを見て、家の犠牲となった母親りゅうが哀れでかわいそうで、その痛ましさに耐えがたいものを感じた。

長治は父親を憎み、家系存続といった考えの旧来性を憎んだ。「私は子供はいらないの、淀川家は潰してしまわないと…」と言って、生涯独身をとおした。

家業は置屋であったから、芸者の女たちは子供の頃から近しい関係にあった。汚い寝顔の女たちが、もろ肌脱いでおしろいを塗り付けて、やがて見事に綺麗な芸者になっていくのを見ていた。その綺麗さの違いも、一流と言われる芸者とそうでない芸者の使う香水も、使う石鹸も鏡台も、つまり女とは力だ、力次第だとはっきりとわかった。わいせつな言葉を教えられからかわれ、お菓子やみかんをもらった。「女」について、その生態と習性について知り尽くした。むしろ若い男たちの姿が異世界の住人のように眩くて、惧れとあこがれの混ざり合ったような眼差しで、いつも彼らを遠巻きに眺めていた。

淀川長治は、小津安二郎にも成瀬己喜男にも、ほとんど関心をもたなかった。50年代アメリカ映画への愛もさほどではなかった、…とのこと。

後年の淀川長治は、ゴダールロッセリーニ、どちらも「映画を崩した人」とみなしていた。それは、それらの作家を半端に称揚する人間よりもよほど正確に、彼がヌーヴェルヴァーグやネオレアリズモの本質を掴んでいることを示すと蓮實重彦は言う。フォード、シュトロハイム、溝口。この三点を踏まえてすべての映画を観た。それが淀川長治だった、と。

旧来的制度がはらむ暴力性を憎んだ。そうでありながら、旧来を無闇に打ち壊そうとする得体の知れぬ新しさに関心を向けることもなかった。

淀川家は戦中から戦後にかけて没落し、淀川長治は両親ともども東京で暮らした。やがて父は死に、最愛の母親と二人きりの生活が二十六年間続いた。それは長治の生涯でもっとも幸福な時期だった。

谷間

大江健三郎作品の「谷間」は、隠れ里だった時代からの古い歴史があり、そのいわば土層には、閉じ重ねられた「言い伝え」が埋まっているとも言えるだろう。大江健三郎にとっての「谷間」はまるでスクリーンのようにして、今ここで起きている事件と、かつて起きた事件を同時に映し出す。時系列を無視したかつての時と今この時が同時に出来し、悲劇的事件、失敗した革命を牽引した指導者の面影を描きだすための下地の役割をも担っている。

そこには、たとえば東京と地方みたいな対比構図は無く、少なくとも登場人物らが東京に憧れるような側面は、ほぼ感じられない。それは「東京と地方」みたいな対比が、きわめて日本的な対比だからか。もちろんどの国にも都市と田舎との関係はあるだろうけど、スケール的に国内向けの問題でしかない要素は、小説の要素から排除されている感じがある。だから大江健三郎作品には、仮にどの国の話だとしてもあまり違和感のない無国籍性がある。

大江健三郎の小説の主人公は、作家であるから東京に拠点を構えているけど、「谷間」の村で作家活動をする可能性、さらに作家ではない人間として、たとえば一生読書と勉強を続けるような人生を「谷間」の村で過ごす、そんな可能性を常に想像しているところがある。大学生であれよあれよという間にデビューしてしまい、ほとんど自らの意志に関係なくそのまま作家になってしまった彼が「この場所から都会へ脱出したい」などと考える余地ははじめからなかったし、それどころか彼は大学を卒業したら「谷間」の村へ戻ることを考えていたし、「谷間」を発展させながらギー兄さんと一緒にさまざまな本を読み続けて暮らすことを、幸福な人生の予想図として想像してももいたようなのだ。そこに想像されていた「谷間」は将来、経済的にも文化的にも発展する可能性を秘めた「美しい村」であり「根拠地」だった。

「懐かしい年への手紙」のギー兄さんは、まるで主人公のKが「村で生活をする自分」を想像するときにだけあらわれる、もう一人の自分の分身、言葉通りの意味で実在している人物ではなく、主人公Kの内面にいるもう一人の存在のようでもあり、Kの無意識下にひそむもう一つの欲望をさまざまに表現する仮定的な存在という感じも、しなくもないと思う。ときにはKの作品に対する辛辣な批判者でもあるギー兄さんだが、その批判は常に他者のものではない自己批判のような色合いを帯びる感じがするのもその理由だが、何よりこの小説とは結局、東京に行かずに、故郷の「谷間」でずっと暮らし続けるはずだったKと、東京で作家生活に明け暮れているKの二重の進み行きが、二人のキャラクターに姿を分けられて交互に展開されているのではないかとの想像を誘うように作られているようにも思われるからだ。

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安保闘争って、とんでもない出来事だったのだろうな…と、あらためて思う。不特定多数の人々が多数集まって、演説を聴き、行進して、デモに参加する。今ではとても信じられないようなムーブメントで、その当時の個々人の感覚は、もはや想像するのも難しいというところだろう。

デモとは何だったのか?との疑問に、その原因や目的や成果を因果的にあてはめても納得できるものではなくて、その場においてデモを生みだしえた、人でも物でもない過剰な力の方が気になる。成果が出た出ないの問題ではなく意味のあるなしでもなく、あの得体のしれない過剰なエネルギーを、日常の景色として見ることが出来たということ、たとえば大正時代に日比谷公園あたりに集まっていた群衆らの発する力も、それと同じようなものではあったのかもしれないし、大江健三郎がテーマに響かせるかつての民衆一揆も、それらと響きあう力ではあったのかもしれない。

それにしても、その時いったいどのような力の拡大と移動がなされたのか、ばらばらに分散していたものがどのように固まって、紐帯がつくられて、組織化したのか、このエネルギーの物量と動きのイメージを想像できないことが、自分がもはや60年代以前を想像するためのフレームを持ってないということの証明かもしれない。おそらく「デモや一揆を起こす力」の減衰と入れ替わるようにして、サブカルチャーや差異の戯れとかにリアリティが生じ始めた。1970年前後にある断層というのは相当深いものなのだろうなと、今さらながら感じる…。(もしかして全日本人は1970年に風邪をひいて、今でもまだひいているのでは…とか。)

再現と反復

大江健三郎「懐かしい年への手紙」は1987年に刊行されている。当然ながら「個人的な体験」も「万延元年のフットボール」もすでに刊行されたあと書かれた作品で、これまでそのような小説を書いてきた作家であるKが主人公の小説だ。

しかし「個人的な体験」の終盤の展開について、三島由紀夫が「---映画はハッピー・エンドでなくてはならない、というプロデューサーに屈したような」と批判した件にちなんで、ギ―兄さんがK宛に、作品の該当するいくつかの箇所に取り消し線を入れたコピーを送付してくる場面には、さすがにおどろいた。そう来たか…と思った。このような「自作の引用」がありうる、という事実がまず面白く、それだけでなく、そもそもこれは引用と言えるのか、私小説というものを内側から自壊させる唯一にして最も効果的な方法がこれなのではないか…と、さまざまな想像を膨らませてくれるきわめて刺激的な箇所だ。

ギ―兄さんが獄中からKに送り続けた、村に関する歴史資料をもとにKは「万延元年のフットボール」を書き上げ、岩場で頭部に致命的な怪我をする女と強姦容疑を背負ったまま自殺を試みる男の出来事が、その作品内にモチーフとして使われることになると知らされるわけだが、「事件」でのギー兄さんと繁さんによって、その場面がまるで過去の再来のごとく「再現」されるとき、この小説を読む者にとっての「最初の出来事」と「その反復」が、とつぜん見分けのつきがたく混然となったものとしてあらわれてくる。そんな途方もない「フィクション」を、よくも平然とうそぶけるものだな…と呆れながらも、その不思議な宙づり感は、それなりに自らの危機感として感受するべき事態だとも思う。

そのギー兄さんが「万延元年のフットボール」での、もちろん隠遁者ギーでもあり、蜜三郎の友人のようでもあり、鷹四でもあり、というかギー兄さんは完全に「万延元年のフットボール」の登場人物たちの行動をくりかえすことになって…。いや、だからそれは逆で、ギー兄さんという存在こそが「万延元年のフットボール」という世界を構築するためのキーパーソン(起源)だったということが、次第に判明する。しかし、いやそんなことは無い、そんなはずがなくて「懐かしい年への手紙」もまた、フィクションのはずだと本書を読む者は思う。そう思いたくなるほど、この話のまことしやかさに引き込まれていて、それに反駁したくなる。このような「ありえない私小説」こそが、大江健三郎の発明した「想像力で書く」小説ということか、と……。