ドリーの冒険

数日前から、蓮實重彦「ショットとは何か」を読んでいる。その中で言及されてたD・W・グリフィス「ドリーの冒険」(1908年)をYoutubeで観た。12分のフィルム、グリフィスのデビュー作。樽の中のドリーの運命や如何に。彼女は助かるのか否か、それをショットがいち早く観る者に告げる、それは「かつて一度観たあのショット」が再び出現することによって。…なるほどですね、と思う。

「ショットとは何か」を読んでいると、その著者の内面に依然として燃えているパワーというか、その熱量というか、まだまだいくらでも言いたいことがあるのだと言わんばかりの言葉の総量に驚かされる。もうどうでもいいとか、お前さんに従うよとか、そういうことをこの著者は絶対に言わない。その理由は今もなおこの人物が数々の書物や映画から刺激を受け続けていて、さらに多くの書物や映画に対して強い不満や不徹底を感じ、そのような風土のまかりとおっていることに対する否定感情が今なお激しく燃え盛っているからだろう。

それとくらべて、なんか最近の自分は、あまりにも日和り過ぎ、漫然とし過ぎではないか、もうちょっと気合を入れ直して、もっと色々と、夢中になったり愛したり、ときには怒ったり憎んだり絶望したり、そんな気持をもっと、自分自身に対して焚きつけるべきではないだろうか、と…。