動物曲芸

幼時から「見る」ということは私の執念のようなもので、菊人形、サーカス、奇術、ありとあらゆるものを見た。それは父につれられたわけで、私は「見ることの好きな」父の血をひいた。しかし見るといっても菊人形が機械じかけで動き、ガラスの中の魚が動く水族館、これらの動くのを見ることを楽しんだのだが、そのころの大正十年前後の日本のサーカスだけは子供の目から見ても悲しすぎて、ほとんど笑いのないことがつらかった。最も楽しんだのは天勝の奇術でこれは何回も見た。
(淀川長治自伝 上巻)

そのころの…サーカスだけは…悲しすぎた、それについて考えている。

「笑いがない」とは、それが芸に至れてないからなのか、あるいは、それが芸として煮詰まり過ぎているからなのか。

何の根拠もない想像だけど、それは動物を使った曲芸演目だったのではないだろうか。

動物を使った「芸」には、それがどれほど完成度の高いものであっても、常にギリギリの緊張が流れている感じがする。

今でいうなら、たとえば、猿芝居とか。あれは、いかにも人間臭い仕草でサルが「ボケて」人間が「突っ込む」、そういう関係が成立してるように見える芸だ。ほんとうは、サルと人間の間にボケと突っ込みの応酬感覚はないし、両者が観客の反応を感じ取ってライブ的快感を感じているわけでもないだろう。あれはつまり、プリセットされた機械に人間が合わせた疑似やり取りとほぼ同じで、その自動再生のようなものを見ている。そのことは、おそらく誰もが知っていて知らぬふりをしている、というか、忘れているから笑えるし楽しめる。猿芝居ではその自動再生に瑕疵や綻びが生じた場合、アクシデントとしての面白味は生じえない。それは単なる事故であり、プログラムの停止に過ぎない。ゆえに笑いは止まり、ぎこちなさややり場のない気まずさが生じて、やがて「悲しみ」がおとずれる。

しかし、そのころの…サーカスだけは…悲しすぎた、そのサーカスが、失敗した猿芝居のようなものだったとは考えにくい。

ひたすら根拠のない想像を続けるならば、そのサーカスとは、たとえば完成され過ぎた猿芝居のようなものだったのではないか。

如何にもな仕草、如何にもな態度、これまでに無数の同じ動作を繰り返すことを強要されてきた動物だけが醸し出す、ある感じ。同じ「ボケ」を、ほんとうに一万回繰り返すことを強制させられた奴隷の放つ雰囲気。

人間が動物に強制して動作をプリセットし、それがあたかも人間と動物の共同作業であり心の共有であるかのように見せる、そんな風に見えてしまうことの驚きが、サーカスにおける動物曲芸の醍醐味だろう。

その完成度が低ければ、動物は動物の本性を露呈し、人間は人間の思惑の破綻を露呈するので、芸が未成立となり、笑いは生まれない。その完成度が高ければ、動物と人間は共にお互いの立場の隠蔽に成功するのだから、芸は成立し、人はそのことに驚き、ときには笑いも誘うだろう。

しかしその完成度は、高まれば高まるほど「悲しくなる」。はじめから仕掛けのわかってる取り組みは、その完成度が、失敗しても成功し過ぎても、悲しくなる、そのどちらにも触れない曖昧な領域にふらふらと揺らぐのが、動物曲芸の生命線だ。でもその生命線は、本気で見ないからこそ、効力を発揮する線に過ぎない。

見れば誰にでも、じつはその芸の行き着く先が見える。それは、あまりにも悲しすぎた。