レディ・バード

 

Amazon Primeグレタ・ガーウィグレディ・バード」(2017年)を観る。…シアーシャ・ローナンは、すごく大柄な人なんだな。…というかティモシー・シャラメが華奢過ぎるのかもしれないが。

グレタ・ガーウィグが主演し脚本にも加わった「フランシス・ハ」はけっこうおもしろかったけど、そのグレタ・ガーウィグ監督による本作も前作の延長にあるというか、話に直接のつながりはないし人物としても別ながら、「レディ・バード」は「フランシス・ハ」の主人公が高校生だった時代の「私」が描かれていると言っても良いかもしれない、いわばグレタ・ガーウィグ自伝というか、作り手の私小説的なアプローチの作品で、面倒くさいというかウザい感じの十代女子感が相変わらず満載で、思惑・打算込みで友達を変えたり、男に接近するも裏切られたり、別の男に近づいたけど何か違うと思ってやめたり、元の女友達と仲直りしたり、色々と面白いのだが、中心にあるのは母と娘の関係だ。

母と娘って「息子と父親の葛藤(ちょっと距離を取って影ながら息子の味方をする母親)」のきれいな反転形として「娘と母親の葛藤(ちょっと距離を取って影ながら娘の味方をする父親)」なのだな。まあ僕も妹がいるので、そんなものだろうな、とは思うが…。

念願通りニューヨーク近郊の大学に入学できた主人公は、しかし母親とは仲違いをしたまま実家を後にする。母は娘への手紙を書きあぐねて、結局その手紙は娘に渡されることなく破棄されるが、それをゴミ箱から拾い出して娘に渡したのは父だ。母親は自分の思いを上手く言葉には出来なかったのだろう。手紙の文脈は、きちんと整理されてはいないようだ。母が破棄したはずのその文面を娘は読む。それは相手の弱みを直接覗いたみたいに、少しの後ろめたさをともなうだろう。

大学生となった主人公は、せっかくの単身生活と言うのに相変わらず全く冴えない日々という感じで、まだ十八歳で、「フランシス・ハ」を思い出すまでもなく(映画を観る誰もが思いあたるような自らの記憶にも照らし合わせ)、まだまだこれからもしばらくは、冴えなくてみっともなくて、自分で自分をコントロールできない、思い通りにならない、逡巡の日々が続くのだよなあ…と先が思いやられて、まあがんばって下さい…と登場人物に声をかけてあげたいような感じなのだが、最後の場面で娘が母親宛にメッセージを書く場面が良かった。これはいい終わり方。

「はじめて地元(サクラメント)を、車で運転したときの気持ちをおぼえていますか?」と娘は母親に聞く。運転免許を取得したばかりの自分が、ついにはじめて自分で車を運転した、おそらく地元を走ったのだろう。車のフロントガラス越しに、自分の故郷の景色が流れていくのを見た。そのときこれまでずっと車を運転し続けてきた母親が目に見てきたであろう景色を、娘はようやくわがものに出来た。あなたがずっと見てきたものはこれだったのねと、娘は母の心ではなく母が見てきたであろう景色として、いわばこれまでの私とあなたの過ごしてきた時間において確かに共有されるべきものとして理解し、そのことを母親に伝えようとするのだ。

青い床の室内が描かれた壁紙

DIC川村記念美術館の常設展示室で、ロイ・リキテンスタイン「青い床の室内が描かれた壁紙」(1992年)。この絵を、かなり長く観ていた。

ソファーや電気スタンドやクッションや観葉植物や縞模様のカーペットやドット柄の壁に掛かった絵のある室内風景である。

奥の壁は一面の鏡で、その鏡に映り込んでいる左右反転した室内が、疑似的な空間を鏡面の向こう側へ広げている。

すべてはごく単純な色面と線によって構成されているので、細部の表情はなく、遠さと近さや、実物と鏡面イメージとに差異の描き分けはない。

鏡によって疑似的な奥行きが与えられているので、手前から奥まではかなりの距離があるように思えるが、それは鏡に映っているからそう見えるだけで、実際は鏡面までの空間しかないこともわかる。

それは絵画だから、奥行もなければ鏡面に映ったイメージでもなく、そもそも我々の存在する三次元空間ではなくて平面であることもわかる。

これが絵画であることはもっとも自明な事実であるはずだが、絵画を観るときはまずいったんそのことを忘れる。いわばフィクションを信じるための手続きを経る。

壁一面の鏡には、それが鏡であることを示すかのような、複数の斜線が描き付けられている。この斜線は、とても記号的である。このように斜線が引かれた壁を鏡だと見なす感覚は、自分がイラストやマンガから学んだものだろう。もしこの斜線がなければ、この絵の壁の向こうの左右反転した空間は鏡に映っているという印象を得るのに、少しばかりの努力がいるだろうか。

しかしどうであれ、手前と奥には反転した同物体が描かれている。この絵は鏡によって疑似的に与えられた奥行を覗き込むような視点から描かれているので、それらがかたちづくるシンメトリーを、斜めから見ている状態だ。それがシンメトリーを構成していることは、見ていればいつかは気づけるはずだ。それにしても、どうも実像と虚像が、シンメトリーと言えるほどには、配置位置の正確さを感じさせないのだ。ところどころおかしいような、ちゃんとした透視図法が効いてない気持ち悪さを感じさせるのだ。

だからと言って、だからそれは鏡像ではなくて実在の空間である、と言えるわけでもない。単に下手な、上手くいってない鏡像イメージという感じでもある。

そもそも、この単純なカーペットの縞々模様は、一応反転像にようでもあるけど、クッションの縞模様は反転していない。壁の絵も鏡像は左右反転しているけど、正確な反転とは言えない。

そこに正確さが無いのは、それが絵画だからである。絵画は、細部はどうであれ、一瞬のイメージでそれを鏡像だと感じさせてくれるものではなかったか。

それはそうだけど、そういうことではない。最初からそんなことを期待しているわけではない。だったら何を求めていたのか、何を見たがっていたのか、そこが、わからなくなっているのだ。

頭の中で想像された、絵画を観て求めるもののイメージ、それはひとまず何かによって区切られた経験であるはず。

でも、これは経験か?むしろひたすらズレて出会い損ねる未経験の連続みたいなことではないか。

手応えがない。つまり、違いが見えない。手前と奥であることはわかる。それが実像と虚像のイメージであることも、それが一枚の平面に単純に描き付けられたドット模様や縞模様に過ぎないこともすべてわかる。にもかかわらず、経験が収束しない。

違いが見いだせない、その理由が、奥行きがあるようで無いから、あるいは鏡のようだけど鏡らしくないから、あるいはそれが一枚の絵に過ぎないから、そのどれによってなのかがわからなくなる。

最初の約束が履行されないのだ。絵画を観るときはそれがいったん絵画であることを忘れるという手続きによって得た安定が保証されないのだ。

鏡に映った何かを、じっと見つめていた経験なら、誰にでもあるだろう。この絵を観るのは、その経験に近いようでありながら、そうではない。「そうではない」という感覚が、行き場を失うような状態におちいる。鏡に映ってないのだ。鏡は描かれてないのだ。ならば鏡はないのだ。しかし実像ではないのだ。なぜなら手前と奥に差異が無いからだ。ということはこれらすべてが実像ではないのだ。でも、それは当然のことじゃないか。

そのような堂々巡りにハマりながら、この絵を、かなり長く観ていた。

殺し屋ネルソン

ドン・シーゲル殺し屋ネルソン」(1957年)。もちろん「ショットとは何か」で言及されている作品。Youtubeにあったのを観た。主人公の苛々と落ち着かない、何かに追い立てられているような切迫感に全編満ちている感じ。ネルソンは背が低い。いつも不機嫌そうな小男の隣にいるすらっとした彼女は、彼よりも背が高くて、それが余計に彼の苛立ちと不安を表現しているかのようにも見える。

状況に対する登場人物の無力さ。たとえばカフカのように、理由なく、なすすべなく、彼らはすでにそこへ投げ込まれてしまっている。そのわけを説明することなどできないし、そんな自分を見返す客観的な視点をもつなど思いもよらない。ただ焦りを感じ、苛立ち、危機感や不安を募らせ、それでも状況の改善に向けて、可能なところから律儀に確かめ、試し、按配を見極めたりはする。ことあるごとに機会を狙い、仲間を裏切り、相手を出し抜き、少しでも自身の身の上の安全を確保し、安全圏への逃亡をはかる。

緊迫感やスピード感はあるけど、勿体ぶったところはいっさいなくて、銃撃の起こるまでが早いというか、勝敗の結果があっけなく出るというか、ひと呼吸置く間もなく決死の瞬間が訪れて、気付けばもう過ぎ去っている。「見せ場」というようなものは無くて、登場人物たちが計画した、あるいは映画が計画した、ある段取りがあって、それらが着実に進行していく感じ。その先には、必ず終わりがあるという感じ。終わりとはすなわち死で、いくつかの場目の重ねられたのち、ベビー・フェイス・ネルソンは絶命する。こうなることは、わかっていたのだけれど…という、観る者の思いだけが取り残される。

ところでベビー・フェイス・ネルソンと言えば、マイケル・マンの「パブリック・エネミーズ」に出てきた同人物もそのふてぶてしさと憎たらしさにおいて強く印象に残るものだった。瀬戸際にまで追い詰められてからの異様なしぶとさ。応援で駆け付けた警官たちが何人殺されたことだったろうか。あいつの最期、身体全体で銃撃を受け、地面に向けて機関銃を撃ちまくりながらついに地面に倒れ伏す場面は、もし銃撃に倒れるシーンベスト10があったら推薦したくなるようなものだった。

F・マーリー・エイブラハム

映画「アマデウス」の魅力は、F・マーリー・エイブラハム演じるサリエリを観る面白さに尽きていると思う。サリエリという人が「敵」であるはずのモーツァルトに、つい同調してしまう瞬間とか、思わず本音を出してしまうとか、その内面の揺らぎを、俳優の彼が身体で表現するのを見る面白さ、ほぼそれだけで成り立っていると自分は思う。(モーツァルトの音楽が好きとか、時代モノが好きな人には、また別の感じ方もあるだろうが)。(F・マーリー・エイブラハムの演技から、なぜか「Wの悲劇」の三田佳子を思い出してしまった。ちなみにどちらの作品も1984年。)

たとえば「舞踏」場面を禁じられたモーツァルトが、規則を適用しないよう皇帝にお願いしてほしいと、直々にサリエリに頼みに来る。サリエリは調子のよい返事をするけど、内心では皇帝に相談する気などさらさらない。しかし思いがけぬ展開で皇帝からの許可が下り、モーツァルトは満面喜色をたたえてサリエリを見る。サリエリは内心忸怩たる思いで、苦々しい顔をしながら、一応取り繕って、まあまあ…と手を振ってモーツァルトに合図する。このときの仕草や表情は、自分にはなぜか魅力的に感じられる。

貧困にあえぎ職探しをするモーツァルトは、皇帝の娘の音楽教師になぜ凡庸な音楽家が選ばれたのかをサリエリに抗議する。「あんな男が教師では、令嬢の音楽的才能が犠牲になる」というモーツァルトに「あの令嬢にそんな才能は元より無い」とサリエリは無表情に答え、それを聞いたモーツァルトは不意打ちをくらった様子で思わず苦笑する。この場面の二人の間に、ほんの一瞬だけあらわれる親和の感じ。

あるいは「フィガロの結婚」打切りに抗議するモーツァルトに対して「皇帝にわかってもらうためにはもっと短い時間で、最後をわかりやすく盛り上げなければダメだ」と端的に応えるサリエリサリエリモーツァルトの「味方」ではないが、モーツァルトが陥った事態の原因にあたる部分を正しく彼に伝えている。このときの彼が何を苦々しく思っているのか、それが目の前の下品な男に対してだけではないかのような、そのときの複雑な仕草と表情と声。

そしてラスト三十分におとずれる、モーツァルトとの最初で最後の「共同作業」におけるサリエリ。ベッドに伏すモーツァルトの口述をサリエリが楽譜に書き入れる、いわば音楽の口述筆記が行われる。怒涛の奔流のようにあふれ出すモーツァルトの音を書き留めるために、「早い!早い!もうちょっとゆっくり!」と繰り返しつつ、サリエリは必死にペンを走らせる。モーツァルトの意図を理解するのにサリエリは時間がかかる。モーツァルトはさらに突き進む。サリエリの焦燥、苛つき、屈辱、しかしやがて解を見出し、彼の頭の中の旋律がサリエリの頭の中にも流れ出すと、驚愕がおとずれ、興奮、歓喜があふれ、モーツァルトはそれをさらに多層化し、さらに遥かな高みへ昇っていく。二人の作業がスピードを増していき、サリエリが興奮を抑えられない様子で思わず「…素晴らしい!」と叫ぶ。

この終盤だけは、さすがに見ごたえがある。このために二時間半も、えんえん見続けてきたのだからなあ…と思う。

アマデウス

DVDでミロス・フォアマンアマデウス」(1984年)を何十年かぶりに観た。むかしは「すごく面白い」と思った気がするのだけど、さすがにそれほどではなかった…という感じ。燃えさかる嫉妬心と自尊心崩壊に責められながらも、天才の力に魅せられ圧倒される「凡庸な人」を、まるで水を得た魚のように、ほとんど楽し気に見えるほど活き活きと、F・マーリー・エイブラハムが演じている。その様子を三時間もの間、ひたすら見る。

サリエリモーツァルトが書いた楽譜を読んで陶酔し恍惚となる。これはまぎれもない傑作、天才の業であると見抜く。そしてなぜこの力を授かったのが自分ではなくあの男だったのか、そしてなぜ自分にはそれが天才の業であることを見抜く力のみ与えられたのかを嘆き神に訴える。サリエリモーツァルトに嫉妬する。しかしサリエリは何を求めていたのか。彼は幼少から今に至るまで音楽の力によって神へ奉仕しようと考えている。サリエリは常々神に話しかけ、我が身を嘆き、最後は、神に背く決意をかためる。もし天才の力を自分が授かったなら、サリエリは神の寵愛を受けることができたはずだ。にもかかわらず神はモーツァルトを選んだ。サリエリの嘆きと怒りの元は、神のアンフェアさにある。サリエリは決してモーツァルトのようになりたいとは思っていない、しかしモーツァルトが「持っている」(らしい)「美」を作り出す能力に強く執着する。その「美」自体の魅惑を感じ取ってもいる。

「天才と凡庸」は以下のように分類可能で---1.「美」を作り出すことができる/2.「美」を作り出せないが、感じ取ることはできる/3.「美」を作り出すことも、感じ取ることもできない---、モーツァルトは1、サリエリは2、皇帝は3に該当するのだが、しかしそれは実のところどうでも良くて、この映画は「天才と凡庸」の問題をテーマにしているようでいて、じつはそうではないだろう(ごく浅い解釈として利用してるに過ぎないだろう)。というか「天才と凡庸」の問題が、恋愛問題にすりかわっているのだ。サリエリに対して自分がイマイチ腑に落ちなかったのはそれが理由だろうと思う。天才は嫉妬されて苦しむ、半凡庸は凡庸さ自体に苦しむ、真凡庸は何も考えてない・・・のではなくて、ここでは実際のところ、誰かの愛が誰かに届かなかったというだけ。サリエリは「美」を作り出す天才でありたかった。「美」に惹かれるからではなく、神から愛される資格を得るためにだ。しかし神はどうやらモーツァルトを愛しているようで、かつモーツァルトサリエリのようには神について考えていない(愛していない)。これはつまり、サリエリモーツァルト、神による三角関係の、一方通行型片思いの変奏であり、サリエリの苦しみは失恋した者のそれであるだろう。そしてこの映画は「美」それ自体の価値を問わない。それは美貌とかお金のような「愛される理由」に過ぎないからだ。

セインツ -約束の果て-

AmazonPrimeでデヴィッド・ロウリー「セインツ -約束の果て-」(2013年)。「ショットとは何か」で言及されているので観た。かなり良かった。はじまって早々に、もう逆らいがたく、確固たる世界のなかに閉じ込められた人達というか、止めようがないある運命に翻弄されている登場人物たちの有様を眺めやるしかない、この「どうしようもなさ」の手触り感がすごい。

強い西日に照らされ、あるいは夜の暗闇に沈んで、かすかな照明を受けて、登場人物たちはまるでオランダ絵画の肖像のごとくぼんやりと顔輪郭の半分を浮き上がらせるだけみたいな、ひたすらほの暗い画面が全体を支配している。誰もが余計な無駄話はせず、うつむいて歩いてる。陰鬱で、怪しい気配、悪い予感、不安、悲観的な未来の予想がある。それと同時に一縷の望み、希望、歓びもある。誰もがおそらくそれを、心のうちに感じている。

ヒロインのルーニー・マーラの、登場人物としての「心象」を、演技とか演出とか照明とか、それらの特定の要素だけが飛び出してくるのではなく、あらゆるものが均等にそれを支えている感じがする。養父役のキース・キャラダインなど顔だけでも素晴らしいのに、こういう映画にこういう顔の人が出てるというだけで、おそろしく贅沢なものを観てる感じがする。

よくよく考えてみると、けっこう変な話だと思うし、ツッコミどころもありそうなのだけど、そういうことはどうでも良くなってしまうほど、映画としての緊張感や訴求感が高い(というか、こんな話なのに、よくもまあこれだけ…と思う)。濃密ながら物語の運びはテキパキとして無駄なくて完成度高い。

カラーフィールド

DIC川村記念美術館「カラーフィールド 色の海を泳ぐ」へ。いつものことながら、佐倉は遠かった。京成佐倉駅から無料送迎バスで美術館まで運ばれるのだが、今日はそのバスの時間も、やけに長く感じた。

総じての印象としては、思ってた通りだったとも言えるし、思ってた以上に良かったとも言える。展示室でフランケンサーラ―三点、ルイス四点に囲まれたら、それは相当に素晴らしい体験であるのは否定しがたい。これだけの作品を、これだけ広い会場で観られるだけでも、たいへん得難い機会であり、すごいことなわけで、けっこう楽しみにしていたし、じっさい楽しんだ。しかしその一方で、このあまりにも享楽的で快楽的な世界を、こうしてただ浴びていられれば満足だと、心から思ってしまえる、そのことを認めるのに、やはり、ある種の躊躇を感じもした。

たとえばオリツキー、80年代以降の作品には、まるで興味をもてないというか、もはや完全に風化してしまった作品にしか見えなかったのだけど、しかしそれはある意味、70年代の大作群の時点で(様々な留保や自己内注釈を込みの上で、はっきりいって、あまりにも美しい…がゆえに)、すでにそうなのだとも言える。

でも70年代のシリーズに限ってであれば、あれらの大画面に四方を囲まれ、その広がりを観ていられるならば、なんかギリギリで「…いや、これ、自分は好きです、もうこれだけで充分です」とつい口を滑らせてしまいたくなるような、観てそんな誘惑に駆られるのを、認めないわけにはいかない。

しかし少なくとも絵画の場合、その経験から受け取ることのできる本質的なものとして「気持ちいい、満足した」とは異なる何かを期待したくなるところはあって、たとえば快適な風景をとか、心地よい温泉に浸かってるとかの感じの延長に、絵画の体験は無いのだと思うし、あえて言えば、もう少しばかり「不自由」で「かったるい」もののはずだと、内なる反論がわき上がってくる。

たとえば常設展示にあったピカソの作品(肘掛椅子に座る女)は1927年の作品だが、それを見るとやはり、このたびの画家たちが問題にしなかった要素が、ここには猛然とうごめいているかのようにも感じられる。だからピカソの方が良いとか、そういう話にしたいわけではないのだが、今の自分には、たとえばピカソの作品から発してくる問題のほうに、気にかかる何かがある気もする。その「気掛かり感」に心のリソースを割きたいと思うとき、これらの作品群は「そんなこと考えなくてもいいですよ」と応えてくれているかのようでもあるのだ。