DIC川村記念美術館「カラーフィールド 色の海を泳ぐ」へ。いつものことながら、佐倉は遠かった。京成佐倉駅から無料送迎バスで美術館まで運ばれるのだが、今日はそのバスの時間も、やけに長く感じた。
総じての印象としては、思ってた通りだったとも言えるし、思ってた以上に良かったとも言える。展示室でフランケンサーラ―三点、ルイス四点に囲まれたら、それは相当に素晴らしい体験であるのは否定しがたい。これだけの作品を、これだけ広い会場で観られるだけでも、たいへん得難い機会であり、すごいことなわけで、けっこう楽しみにしていたし、じっさい楽しんだ。しかしその一方で、このあまりにも享楽的で快楽的な世界を、こうしてただ浴びていられれば満足だと、心から思ってしまえる、そのことを認めるのに、やはり、ある種の躊躇を感じもした。
たとえばオリツキー、80年代以降の作品には、まるで興味をもてないというか、もはや完全に風化してしまった作品にしか見えなかったのだけど、しかしそれはある意味、70年代の大作群の時点で(様々な留保や自己内注釈を込みの上で、はっきりいって、あまりにも美しい…がゆえに)、すでにそうなのだとも言える。
でも70年代のシリーズに限ってであれば、あれらの大画面に四方を囲まれ、その広がりを観ていられるならば、なんかギリギリで「…いや、これ、自分は好きです、もうこれだけで充分です」とつい口を滑らせてしまいたくなるような、観てそんな誘惑に駆られるのを、認めないわけにはいかない。
しかし少なくとも絵画の場合、その経験から受け取ることのできる本質的なものとして「気持ちいい、満足した」とは異なる何かを期待したくなるところはあって、たとえば快適な風景をとか、心地よい温泉に浸かってるとかの感じの延長に、絵画の体験は無いのだと思うし、あえて言えば、もう少しばかり「不自由」で「かったるい」もののはずだと、内なる反論がわき上がってくる。
たとえば常設展示にあったピカソの作品(肘掛椅子に座る女)は1927年の作品だが、それを見るとやはり、このたびの画家たちが問題にしなかった要素が、ここには猛然とうごめいているかのようにも感じられる。だからピカソの方が良いとか、そういう話にしたいわけではないのだが、今の自分には、たとえばピカソの作品から発してくる問題のほうに、気にかかる何かがある気もする。その「気掛かり感」に心のリソースを割きたいと思うとき、これらの作品群は「そんなこと考えなくてもいいですよ」と応えてくれているかのようでもあるのだ。