ナイト・フィーバー

サタデー・ナイト・フィーバー」でのジョン・トラボルタのダンスは、たとえば同時代のマイケルジャクソンなどとくらべたら、まったく大したことないだろうし、フレッド・アステアのような華麗で完璧でひたすら観る者を魅了するような技量とセンスに満ちているというわけでも勿論ない、ということになるかもしれないが、しかしそういうことではなくて、たぶんあのダンスで彼はあの店のヒーローで、それはある酒場とか、あるゲーセンとか、あるバッティングセンターのヒーローのようなもので、それはもとより大した凄さではないのかもしれないけど、でもその店だけであるならば、彼は確実にヒーローだ。

そしてディスコにおいては、ヒーローみたいな人とそうじゃない人の間に、おそらくそう大きな格差があるわけではない。もちろんヒーローはモテるし人気者だけど、それ以外の者の居場所がないわけでは全くない。ヒーローじゃない人が自分なりのやり方で踊ってもいいし、ときにはそんな人の踊りで、周囲が大いに沸いて、盛り上がってしまうこともあるだろう。もちろん(彼の兄のように)、その場所がまったく肌に合わない人もいるだろうし、ときには喧嘩とか、集団が個人を侮蔑するとか、くだらないことも起こるだろう。しかしディスコは原則として、よりふさわしい者とふさわしくない者が分別される場所ではなくて、できるだけ多くの人がそれぞれ楽しむためにある場所で、だからダンスの上手下手の尺度だけではない、もっと前向きに楽しさや気持ちよさをとらえようとする共通の意志にもとづいた集団意志で、そうであるかぎりディスコは天国のような場所になるのだろう。

まあ「サタデー・ナイト・フィーバー」で、ディスコは天国のような場所のようには描かれているとは言えないというか、あのディスコは天国でも地獄でもなくて、もしかするとジョン・トラボルタは場合によっては、結果的にいつかディスコを卒業してしまう可能性も、なきにしもあらずなのだけど、しかしジョン・トラボルタのダンスは、そこが天国のような場所(だった/であろう)かもしれないという、その片鱗というか予感というか、そうであったら素敵なのに…という幻想的期待を、観ているこちらに喚起させるものはあったと思う。(それにしても、今となってはもはや、さすがに古いのだろうけれども…) 

Saturday Night Fever (Bee Gees, You Should be Dancing) John Travolta
https://www.youtube.com/watch?v=LUID0jSh2Ic

Saturday Night Fever - Night Fever (Bee Gees)
https://www.youtube.com/watch?v=2tG5SllettU

智積院

サントリー美術館で「京都・智積院の名宝」を観る。等伯って、やはりフレームに対する感覚が新しいというか、そもそも与えられたフレームはすでにイメージを生成してしまっていて、その枠内に絵を描くというのはすでに、その内側へアプローチするだけでは済まないのだというのを、ほとんど感覚的につかんでいたのだろうと思う。そう思いたくなるような画面全体が、緊張に満ちた「この瞬間にだけ成り立つ全体の感じ」みたいなものに賭けられている感じがある。決して落ち着いた気持ちで、座標を決めるかのように各要素を配置しているのではない。いや結果としては配置だとしても、そのことで生み出されるものは、行為の静的な経緯によるものとは違う。描いた人が見る人に「これを見よ」と指示するのではなくて、描いた人も見る人も、共に「見えるか?」と想像しながら緊張している。

それなりに劣化の進んだ画面であるし、おそらく幾度も貼りかえられたり移動されたり、様々な変遷を経て、今ここにあるのだろうと思われる作品群で、あからさまに別の画面が貼りあわされていたり、通常の屏風のサイズではなくておどろくべき巨大サイズの画面だったりと、時代の変遷が絵にもたらしたものの作用もかなり大きいのだが、それでもここには絵がある、すなわち「この先が見えるだろうか?」といった、描き手も含め絵の前の者すべてに等しく分配された緊張や不安への問いかけがある。五百年も前から、これはすごいことだ。

Sawayama

ツイッターのトレンドに"rina sawayama"と名前が出ていて、どんなものだろうかと思って観客がステージ撮影した短い動画をいくつか見てみたら、かなりアツいものがあって良かった。曲にもよるのだが「Bad Friend」とか「Catch Me in the Air」とか、個人的にはとくにいい感じ。今風な曲ではなくて何十年か前みたいな感じではあるけど(むしろこれが最近では新しいのかもしれないけど)、曲の良し悪しだけでは片付けられないのがステージパフォーマンスの伝えてくるもので、何かをつかんでこれで行けると自分のなかに強く確信もってしまった人だけが持てる特有の力強さがあって、なかなか惹きつけられるものがあるなと感じた。

「Bad Friend」は、なにしろ歌詞がいい(対訳サイトで読んで)。個人的な過去の記憶に介入してきて、心を揺り動かされるものがある。

Rina Sawayama - Bad Friend (HOLD THE GIRL TOUR | Birmingham) (21/10/22)
https://www.youtube.com/watch?v=KDxiyHdP8l0

Rina Sawayama - Catch Me In The Air - The Dynasty Tour Experience (Global Livestream)
https://www.youtube.com/watch?v=w2tSaquWsMM

サタデー・ナイト・フィーバー

AmazonPrimeでジョン・バダムサタデー・ナイト・フィーバー」(1977年)を観る。ビー・ジーズの「ステイン・アライブ」をバックに、ジョン・トラボルタが楽しそう歩いているのは、神田駅を出てすぐの靖国通りの高架下である。それをおそらく秋葉原方面に向かって歩いている。

というのはもちろんうそ。しかしこれが、70年代後半のブルックリンか。しかし、けっこうあのあたり、または昭和通り沿いっぽいなー…と思う。マジで一瞬、そう感じさせるものがあった。

でかい音でディスコサウンドをかけて、こうして主人公を歩かせる、あるいはディスコのステージで踊らせる。その気持ちよさ、それを映画として観るよろこびは、本作で余すところなく展開されていて、なにしろジョン・トラボルタのダンスは素晴らしい。そしてやはりディスコである以上、様々な異種(人種、民族、その他)も表象されはするというか、ディスコ(ガラージュ)的な匂いが、それを避けがたく呼びこんでくる感じがある。とにかく音楽の強い魅力が、映画全編を強く支配している。映画で、踊ってる人を観るのは、ひたすら幸福だと思わせてくれる。

しかしジョン・トラボルタは、冒頭での登場シーンではいかにも気の多い感じの、街中を歩きながら好みの女が目に入ればふと近寄っていくような、ふわふわとした如何にもな若者だと思ったのに、週末になっていつものディスコでひと踊りして場内の喝采を浴びる前後で、なぜか妙にストイックな、不思議と周囲から距離をおきたがってるような妙な孤絶感をかもしだす。以降この映画は、トラボルタが今の中途半端さからどう脱け出すのかがテーマとなり、時折披露される素晴らしいダンスシーンや、仲間や恋人候補のような女性らとのやりとりを経ながらも、問題は彼自身のこれからというか、このあとの人生をどうしよう…的なところを中心に進む。

あれだけ周囲を沸かせて、尊敬され、女にもモテて、ディスコキングとか言われるくせに、彼自身はそれを大したことに思ってないのか、妙に醒めた、つれない態度をとるのだ。ディスコで踊るなんて、今だけのことさ、こんなことはいつまでもやってないさ…みたいなことを平気で言う。女にモテるためじゃないんだ、上手くなりたいだけだ、とか言ってる部活動の高校生みたいに、ひたすらコンテストに向けて練習するようなストイックさで、身近な友人らが、すごくだらしないのと好対照みたいに見えてくる。てっきり踊りだけが生きがいで何しろ踊っていられれば万事OKな人物なのだろうというこちらの予想がくつがえされてしまうのでやや面食らう。そして周囲の女性たちの扱われ方の酷さが印象的。自分が、自分自身に対して「健全」な男は、女性に対してどこか無意識で蔑視的になるものなのかなあ…と思う。

ブルックリン橋であんな風に遊ぶ馬鹿な若者が実際にいたのかどうか知らないけど、まあ昔は、いたのかもしれないなあ…と思うし、若者の暇さというか、やることのなさというか、どうにもならなさは昔も今も変わらないかもしれない…。

とも思ったけど、いやいや、昔と今の「今」は僕にとっての今なので、それも大昔ではある。こういう遊び自体が、いまはもはやありえないし、こういう遊び方や追い込まれ方も、もう無くなったのかもしれない、とも思う。

音楽目的

何が目的なのか皆目わからないけど、異様にハイテンションであること、それが音楽のもっともまっとうな事態だ。目的がわからないとは、すなわちそれが、意味に結びついてない状態ということだ。音楽は、つまりフレーズは始まりから終わりまで流れるのだけど、それを流れさせるものの正体がわからない。わかってるときのフレーズと、わからないときのフレーズは、これは違うのだ。ある流れが認められるとき、その終着地点が予想できない、それをあらかじめ身体的な準備をもって迎えることが出来ないというのは、これは強い緊張と不安をもたらすものだ。音楽が始まってしまったら、最悪の場合、家に帰れなくなるかもしれないし、このまま食事も睡眠もとれずに死ぬ可能性さえあるのだ。音楽が意味に結びつかない状態のときに、我々をおそう不快感の実態とはそれだ。それが原理だ。それを元手にして、しかしそこそこの距離から戻ってこれるようにしよう、そのルールで皆で楽しもう、あまり海の沖の遠くまでは行かないのを身内のルールにして、あとは内側のやり方をどんどん洗練させていこうと取り決めて行われるのが、共同体の音楽だ。この世でならこれを楽しむよりほかないのだけど、それを忘れて、どこを見て、何を聴き取ろうとしているのか、さっぱりわからないような、やたらとハイテンションな音を聴くとき、これが本来の音楽だと思うと同時に、音楽が何かの器としてまっとうに使われていて、しかも音楽がその使用に耐えかねてギシギシと軋んでいるなと思って、その用途に沿った正しさを心地よく思う。

潤滑油

長年使われて、使い古された道具。それなりに手入れは行き届いていて、注入される機械油が芯まで沁み込んでいて、今でも必要最低限の役には立つので、必要十分ではあるけれど、さすがに新品同様とはいかない。新品ならではの滑らかさ、もしくは動きのぎこちなさや生硬さはすっかりなくなって。ほぼ抵抗なく、だらっと重力のなすがままであるところを、留め具でかろうじて支えられてる。癖や注意すべき点など熟知されているし、今さら交換する気もないし、もし新品に交換できたとしても今更使いこなせないのは間違いない。引き続き、これを使い続けるしかない。そういう道具が、つまり自分の身体だと思う。とくに最近、酒を飲んでいるときに、それを思う。酒を飲んで酔うときの、酔い方が昔と違うので、そう思う。酔い方というか、あまり酔わなくなってきた気がする。観葉植物にもう充分に水をあげてしまって、これ以上あげても、ただ鉢の底から水が流れ出るばかりみたいな、そういう無駄な感じがしてくる。今更どれだけ潤滑油を加えても、もう大して意味はないのかなとも思う。

睡眠

身体だけが休んでいて、脳が活動中なのがレム睡眠。脳まで休んでいるのがノンレム睡眠

それならば、いったん目覚めてから一時間ほどして目覚まし音で無理矢理覚醒させられるまでの、あのひとときが何だったのか。それは、iPhoneのアプリが計測してくれるのだ。眠ってから起きるまでの、レム睡眠とノンレム睡眠の往還過程を、グラフで示してくれるのだ。

でも、どうも腑に落ちない感じもするのだ。この時間、たぶん、あの夢を見ていたはずだけどな…などと思うのだ。だとすれば、レム睡眠だった可能性が高くないか、とか。

ノンレムだけど、夢を見ている状況もあるのかもしれないが。しかし脳波は測定できても、意識が見ているイメージを「録画」することができないというのは、なんとなく不思議な気もする。そのくらいのことは、さっさと出来そうではないか、任天堂とかソニーなら出来るのではないかと。

夢を録画できるとしたら、という話だけど、そもそも夢は、視点がないのかもしれない。この私が見ているというのは、映像には置き換えられない。映像は映像でしかないからだ。この私が見ている(見ているとは、見ているだけではなくて、それ以外のすべての知覚の可能性に開かれている)状態にある、その準備態勢は、今この知覚と身体をもってしか受け止めることのできないものなのかもしれない。

そのことの構造というか仕組み部分の手触りを感じさせるのが、睡眠中から覚醒にかけてのの、あるひとときなのか。