何が目的なのか皆目わからないけど、異様にハイテンションであること、それが音楽のもっともまっとうな事態だ。目的がわからないとは、すなわちそれが、意味に結びついてない状態ということだ。音楽は、つまりフレーズは始まりから終わりまで流れるのだけど、それを流れさせるものの正体がわからない。わかってるときのフレーズと、わからないときのフレーズは、これは違うのだ。ある流れが認められるとき、その終着地点が予想できない、それをあらかじめ身体的な準備をもって迎えることが出来ないというのは、これは強い緊張と不安をもたらすものだ。音楽が始まってしまったら、最悪の場合、家に帰れなくなるかもしれないし、このまま食事も睡眠もとれずに死ぬ可能性さえあるのだ。音楽が意味に結びつかない状態のときに、我々をおそう不快感の実態とはそれだ。それが原理だ。それを元手にして、しかしそこそこの距離から戻ってこれるようにしよう、そのルールで皆で楽しもう、あまり海の沖の遠くまでは行かないのを身内のルールにして、あとは内側のやり方をどんどん洗練させていこうと取り決めて行われるのが、共同体の音楽だ。この世でならこれを楽しむよりほかないのだけど、それを忘れて、どこを見て、何を聴き取ろうとしているのか、さっぱりわからないような、やたらとハイテンションな音を聴くとき、これが本来の音楽だと思うと同時に、音楽が何かの器としてまっとうに使われていて、しかも音楽がその使用に耐えかねてギシギシと軋んでいるなと思って、その用途に沿った正しさを心地よく思う。