朝の電車内で、そこかしこから人の話し声が聴こえてくるようになると、春が来たんだなと思うところがある。

冬の間、車内は水を打ったように静かなものなのだ。

誰かがほんの少しでもささやき合おうものなら、その声は端から端にまで響き渡るほどの静けさだ。

だからほとんどの時間を誰もが無言のまま、移送先のことを思い浮かべている。身体に揺れを感じながら、じっと黙って我が身の運命と事の成り行きを案じているのだ。

ただし電車のなかにいても、開いたドアから入り込んでくる乾いた風の様子から春の訪れはわかる。

それで締めつけられていたものがゆるんで、表情がほころんで、手から滑り落ちた外套は他人の足に踏まれ泥にまみれてぺしゃんこになる。

またたく間に早い息遣いと体臭が混ざり合って、アサリの貝がぱくぱくと息をして、ときおり砂を吐いて床一面を水浸しにする。

主婦たち、学生、通勤圏一時間以内で購入検討中の、新しくオープンした複合型商業施設の、年金だけではとてもやっていけない、ぶつかり合いながら引き摺られるスーツケースの音と、ぐったりと座席に沈んで、疲れ果てた表情の観光客たち。

足元にかすかな振動として伝わってくる、小さな動物たちの行動習性である特徴的な反復の仕草。

水道から勢いよくほとばしった水飛沫は、やがて弱まりながらも、だらしなく、とりとめなく、けじめなく、床に漏れて広がる。

鋼鉄の車両は剛性を弱め、リベットが芽のように浮きあがり、その隙間に水が浸み込んで、車体下部に組まれた制御部品への金属疲労を誘発させる。

ふだん平日の日中は建物の中でずっと仕事してるので、たまに所用で外出したとき、日中のそんな時間に外を歩いている人たちを見て、これだけたくさんの、自分とはまったく異質な、別の仕事、別の用事、別の役割、別の目的、別の論理で生きている人たちが、外の世界にはいるのだと思って、そのことに気が遠くなる思いがする。

そんなの、自分の勤め先の外にも人がいるというだけじゃないかと言われそうだが、たしかにそれはそうなのだが、なんというかもっと、全然違う何かだと言いたい、すれ違う人々が、ほとんど外国人のように自分とは隔たっていて、きっと言葉も意志もまるで通じない、なぜかそう実感される。それは悲観とかネガティブな感覚とかではなく、端的な事実のように感じられる。

逆に言えばそれは、社内というか同じ建物内に働く人々を、それだけ身内のように、同じ論理を共有してる枠内のように感じていることでもあるのか。この建物のなかに何百人いると思っているのかという話だが、観念上はそんな風に思っているのか。

結局内外どちらも思い込みに過ぎなくて、この認識はおそらく内外どちらも正しくない。しかし正しくなくても機能しているのだから、それはそれでいい、運用の問題なので、ひとまずそのままでいいとの判断は可能だ。

お金の問題と、課された役割の問題。困難なタスクを軌道に乗せようとすること。失業保険の受理に必要な書類を調べ問合せ取り揃えること。それは等しく何事かへの努力だ。

まだ遠くの海に小さく見えていた点が次第に大きくなり、船が見えて、甲板には人の姿、来客だ。会議室はすでに予約してある。

学校のような場所で講話するという機会があった。もともと僕は仕事上、任意の誰かに話をしたり説明したりする機会はそこそこ多くて、面談などもこれまでのべ軽く百人以上はやってるはずだけど、そこそこ大人数の前で合計二時間弱も話をするというのはたぶん生まれて初めてのことだ。(べつに偉い人ではないので、自分の功績とかを話したわけではなくて、単なる会社員としての講話。)

日直係が、起立、礼の掛け声をかけて、自分が先生呼ばわりされて、あー学校って、こういう感じだったな…と思う(厳密には学校ではないが)。学生のとき高校で講師のバイトをしたときのことを思い出したりもしたし、こうして教える/教わるの関係の枠組みのなかに来てみると、三宅さんがふだん書いてることも一々あてはまるなと思った。

講話中、自分の視線は居室の中程に定めて、手前の人たちとは視線を合わさないようにして、ときおり左右を見回しながら、さらっと生徒の様子を確認する。おしなべて皆さん、ぐっと我慢してこの場を耐えてるというか、仕方ないからおとなしく聴いてる感じ。時間が経ってくると、少しずつ全体の雰囲気がゆるくなってくる。聴いてる人と聴いてない人が分かれ始めて、だんだんまだら状になってくる。眠そうな顔で固まってる人もいれば、頭ががくんと折れてしまった人もいる。こちらにしっかりと顔を向けて、話にうんうんと相槌をうって聴いてくれてる人もいるのだけど、あれはきっと性格が良いのだろうなと。けっしてこちらの話を興味をもって聞いてるわけでもないのだろうなとも思う。自分としても、話がすでに冗長にすぎるかなと思うと、場もそんな風にだらっとしてくるし、少し興味や関心が向きやすいような話に矛先を変えると、途端にぐっと「喰い付き」が変わるというか、全体の「聴いてる感」が高まるのがたしかに感じられたりもした。

急な話だったのと、先方から懇願されて断れなかったのと、あまり事前準備できないし、こっちは話の素人だし、品質に責任もてませんよとお伝えしたうえで臨んだ場であったけれども、終わってみて思うのは、それなりに恰好だけはついたのかもしれないけど、まあこういうのはしっかり事前準備すればするほど充実したものになるのだろうし、少なくとも話者である自分の満足度が、その準備に見合うというか、そこに比例するものだろうなということで、まさに三宅さんがふだん言ってる通りだなと思った。あと、それこそあの場において「笑い」を取るのは、至難の技だなとも思った(べつに仕掛けてスベッたわけではなくて、終始単調にマジメに話しただけだが)。聴いてる人たちはけっして、愛想笑いなんかしてくれないからな。本当に面白くなければ笑わない。面白い話ができて、笑いも取れて、全体を活気づけられるというのは、すごい技だなと思う。

夢を見ながらうなされたり、ときには叫んだりすることもある。そういうとき、隣で寝ている妻に起こされる。どんなに恐ろしい夢を見ているのかと思うほどの声を出すらしい。明け方に騒がしくして申し訳ないと思う。

叫ぶ場合は、たしかに怖い夢を見ていることもある。ただそうやって身体が動いているということは、もう意識はかなり覚醒の領域に近づいているので、起こされると、それまで見ていた夢をおぼえていることが多い。だから、あれしきのことでそんなに叫ぶかね、と自分に呆れることもある。叫ぶのはその状況を早く終わらせようとしてるから、というのもあると思う。だからかすかな自覚がある。

しかしうなされる理由はわからない。自覚はないし、何を受け止めているのかもわからない。夢は記憶に残らない。ただ、怖い思いや、切羽詰まった思いをしていたわけではなくて、なんでもない日常の延長のような夢の、うっすらとした余韻だけを感じることはある。

夢が願望の充足だとすれば、叫びたくなるような怖いものを、ぼくは望んでいるとも言えるか。しかしうなされている自分はいったい夢の中でどこにいて何を見ているのか。願望とはたぶん、欲望とか欲求とはちょっと違うのだろうな。同じ属性ではあっても、まだ特定のむずかしい、名指すことさえまだ出来ないような、ふわふわした不定形な、対象未満の何かではないだろうか。

あきらかに、老人と見なされねばならぬ年恰好の男性二人が、電車内で熱っぽく語り合ってる。何かと思ったら「洋楽」の話だ。往年の有名バンドやミュージシャンの固有名詞が、次から次へ飛び出してきて、あの曲のここが良いだの、あの曲は最高だの、留まるところを知らぬ勢いで話が続いている。挙句の果てにはスマホを取り出して人目もはばからず幾つかの曲を再生して、そうそうこの部分が…などと盛り上がってる。

ひじょうに奇妙な光景に思えた。もちろんあの年代の人物が往年の「洋楽」を知っていることにまったく違和感はないどころか、彼らこそまさに現役世代だろうけど、そういうことではなくむしろあの二人が、まるで「洋楽」について居酒屋とかで熱く語り合う若者とかサラリーマンのやり取りをなぞっているかのように感じられたのだ。いわばベタ世代の人がわざわざネタ世代の真似をしてるみたいな。

まあ、好きな「洋楽」の話をする男性が、年代を問わずあのような感じになるのは仕方がないのか。幾つになっても話に夢中で周囲が眼中にない男子二人…。しかし自分も含めて、男性みなおしなべてどんどん年齢を重ねるわけだから、単にかつての若者とかサラリーマンがあの老人になったというだけか。今後はしばしばあんなお年寄りに出くわすこともあるのだろうか…と思う。

それにしても今日は、お花見にうってつけの日だったようで、家を出てから、いつもはほぼ無人な近所の公園へ差し掛かると、敷地一面がたくさんのピクニックシートやテントに埋め尽くされていて、まだ正午前にもかかわらず、たくさんの人々が賑やかに飲んで騒いでいて、おそらく今日という日は、この公園にかぎらず桜が咲いている場所なら、どこも似たような状況だろうと思った。

じつは世間の人々にとって、今日こそが一年のうちで、もはや正月よりもハロウィンよりもクリスマスよりも、もっとも祝祭的で享楽的に過ごす一日ということになってしまったのか。なら僕もぜひ宴に加わりたい。というかこれだけ多くの人が飲酒するなら、どこかで振舞い酒くらい、やってないものか。

茗荷谷から護国寺を経由し、さらに大塚方面を歩いた。豊島区や文京区は、ただの道に勾配の変化が多くて、まったく水平面的な場所がなくて、だから路面に引いてある白線とか横断歩道の縞々の線も、地面に応じて歪んだりねじれたり、それが足立区在住の我々にとっては、もの珍しく見える。

護国寺境内に桜はほとんどなくて、でも桜はすでにもう、充分に見た気になってしまったのでかまわないなと思う。丁寧に手入れされた、立派な松の木を見上げる。松の木肌は、あれはなぜ表面をきれいに削り取られているのだろうか。あれがきちんと手入れされた由緒正しい松ならではの身だしなみなのだろうか。

松はいい匂いがするし、季節によっては植物公園の針葉樹林帯とかを巡るのは好きだけど、突拍子もないことを言えば、松という樹木の姿を見ると僕は、どうも尊王攘夷な血迷った連中が、その木の下で切腹し血を流しながら伏してるみたいな、そんな妄想というか、そんな幽霊を見てしまうような気がするのだが、それはいったい何の本を読んで、そんな奇妙な観念が植え付けられたのか、まるで記憶にない。

その後、タラの芽とか蕗の薹とかをもとめて御徒町の店へ。しかしそんな春野菜の季節は、もうとっくに過ぎてるのだった。瓶ビールと冷酒、季節野菜の天ぷらと筍の土佐煮を。しかし何もかも高くなりましたな。十五年前なら半額で済んだのではないか。

VHSで、アルノー・デプレシャン「そして僕は恋をする」(1996年)を観る。はじめて観たと思っていたけど、そんなことなかった。登場人物たちが次々と出てくる序盤で、うわ、これか!!と思った。始まるやいなや、何十年も封印されていた箱の蓋を、間違えて開けてしまった感というか、うわ…これは、かつて観ることのできなかった、観るのを拒否したかった、居心地の悪いアンビヴァレンツの記憶の揺り戻しがすごかった。これは自分にとってそんな作品であり、再生されたものを見て、もはやすっかり忘れていた(無かったことになっていた)過去が、ついに呼び起こされたのをぼんやりと認めるほかなかった。

もちろんそれは僕個人の勝手な思いに過ぎないのだが、あえてその主観を優先で書かせてもらえるなら、かつてまともに観るのを拒否したくなった作品を、今こうして冷静に「映画」として観ることができていて、しかしそれだけのために、この数十年という膨大な時間が必要だったのかと、半ば呆れ半ば寂しいような気持になった。そして、あらためて言えることとして、この作品は素晴らしい。

大学の非常勤講師で、論文を書かぬまま五年も足踏みしてるポール(マチュー・アマルリック)は二十九歳である。ああ嫌だな、自己防衛本能強すぎで、優柔不断で、自らが傷付くのを過度におそれる、この若さ、この年代の嫌なところを、一身に背負っている感じだ。

で、こういう人物が、狭いといえば狭い交友関係のなかで、本来目指されるべきステップアップとか、業界への足掛かりとか、誰それに気に入られるとか嫌われるとか、そういうことを一々友人や女友達らから、批評・批判され、うっすらと他人の眼差しで眺められている感じ。

この空気が、昔の自分には地獄級に耐えがたかった。こんな不快な映画があるだろうかと思ったものだ。各登場人物たちとの関係や、それぞれの人物の思惑や苛立ちや噂話など、最初のジャン=ジャックの家でのパーティー場面はひじょうに面白いのだけど、しかしこの狭い家の中に何人もの人がいっぱい、押し合い圧し合いで集まって、皆が酒のグラス持ってふらふらする、あー!如何にも二、三十代の若者の集うパーティーの匂いで、こういうの、最高に嫌いだったな!と、当時の苛立ちが、埃をかぶったまま丸ごとよみがえってきて、色々思いは巡り、もはやあまりにもなつかしい……。

大学講師していて、論文を書きあぐねていて、色々とモラトリアムで、彼女と上手くいかなくて、他の女と揉めて…という、こういう人物を体現する、マチュー・アマルリックという俳優をおそらく僕はこれで認知したし、その後もこのイメージがずっと抜けない。こういうやつなんだよと思ってイライラする。その後ウェス・アンダーソン作品他でも多く見かけるけど、最近のそれとこれとは別物だと思っている。

大体この人たち皆「リア充」じゃないかと(はじめて観た当時、そんな言葉はなかったけど)。悩み苦しみ藻掻きながらも、まるで「引きこもり感」とか「自閉感」を持ってないじゃないか。狭いコミュニティのなかでくっついたり離れたり、トレンディドラマかよ、そんなのはおかしいじゃないかと、当時自分が感じた反発の内訳は、簡単に言えばそういうことで、その程度のことに過ぎないのだが、でも世の中はあれから、ある意味で自分の思ったとおり「引きこもり感」と「自閉感」を、より強めたのだなとも思う。それはそれで、わかいやすい変化ではあり、けっして面白いことではなかったなと。

それにしてもポールの恋人エステル(エマニュエル・ドゥボス)は最初一見、子供じみた鬱陶しい女と思いきや、おそらく観る者の心をもっとも引き付けうるような存在感を示しはじめるのであった。それはこの登場人物の行動や仕草や言葉がというよりも、この登場人物にあたる光の美しさによってではないかと思われる。最初にポールから別れ話を切り出されたときの室内光の美しさにしろ、試験を受けに会場へ出向く場面にしろ、最後の「生理止まったかも」の一連のシーンにしろ、この、ちょっと顎下半分が出っ張ったような顔の、どうにも子供っぽくて頼りない感じだった女性が、見る見るうちに魅力的に、すっときれいな孤独感をたたえた「大人の人物」になっていく過程を、黙って見守るだけみたいな気持ちにさせられるのだ。

でも、昔はじつに最悪だと思いましたけどね。最悪と言えばヴァレリー(ジャンヌ・バリバール)ももちろんそうで「こんな私を何とかしてよ」的な、あの開き直った態度とか、じつにありえない、どこか遠くに連れて行ってそのまま置き去りにすればいいのに、とか思ったものでした。まあそれを聞いてるポールのグダグダな対応も最悪で、それがまた身につまされるというか、自分に批判の矛先が向いてるように感じてさらに逆上したくなったりもしたのだが…。

ただエステルにせよ、ポールにせよ、この映画は仲間内でつるんでいるところから、まがりなりにも手探りで抜け出していく(そうせざるをえない)人に対して、ある魅力的な光を当てようとはしているのだと思う。それは自力とか自分の意志で物事を決めることの称揚とかとはちょっと違う。たぶん自発性とか意志ではない。誰もが何も変わらないと言えば変わらないし、おそらく「大人になる」ことは立派なことでも良いことでもない。それは単に、効率的であることに過ぎない。合理優先で閉鎖することに過ぎない。ポールは別に、最初から最後までそのままなのだが。彼は最後に、シルヴィアからの言葉によって「浄化」されるのだ。

ナタンはポールの友人で「いいやつ」であるが、彼はポールの元カノであるシルヴィアの今の交際相手でもある。だから微妙と言えば微妙な関係で、それをお互いに意識してはいる。しかしそれがあるからこそ、ナタンとポールは互いに紳士的な距離感を保っていられるのだ。よく考えたらナタンはポールを咎めたり反対したりはしないのだ。親身になって相談にのる、という感じでもあるけど微妙にそうではない。つねに無難な答えを言い続けてるだけとも言える。でも「いいやつ」って、要するにそういう感じな人のことを言うのではないのか。そしてもちろん、それは悪いことではない。そういうのこそ「やさしさ」だ、とも言える。(で、そういう感じも嫌いだった。昔は。)

そしてシルヴィア。あらためて思った(思い出させられた)けど、ほんとうに嫌な目つきで、他人を見る女だよな。ポールの心は、つねに彼女に見透かされている。彼女は常にポールの一枚上手だ。シルヴィア、美しくて、そしてまさに、そういう目をした女なのだ。映画を観ているはずなのに、こういう登場人物から自分を「観られる」感覚。それは耐えがたいものだ。

シルヴィアって辛辣だとつくづく思う。別に意地悪なわけではないし、彼女もそれなりに困っているのかもしれない。でも偶然出会うたびに、何こいつ、みたいな、あの目で見られるのだ。いくらなんでも、辛すぎないか。また傍らのナタンの「いいやつ」感が、それに輪をかけてキツイのだ。そこで二人きりにさせますか、というプールサイドでの出来事。果たしてポールは、あろうことか更衣室で着替え中の彼女の裸体を見る。そのときのシルヴィアの態度。まるで動じず、恐れもせず、じっとあの目でポールを見つめつつ、ゆっくりとうずくまる。ポールは絶句する、というかポールとシルヴィアが互いにあのとき何を思ったのか。これまで互いの裸体を見たことがなかったわけではなかったろうけど、それにしても……。(本作でシルヴィアら女性たちは、うずくまる格好でたびたびヌードを画面に晒す。まるでドガの裸婦みたいに。)

ポールと従弟ボブとの似た者意識からなる合わせ鏡的息苦しさと、ポールとナタンとの適度な距離感からくる安定の信頼感があって、さらにポールの弟への思いがあって、そしてかつての友人であり、今は絶交状態であるラビエへの、幾重にも積み重なった感情のもつれがある。三時間もある長い映画なので、これら男性登場人物たちの存在感もしっかりと分厚い。

ポールと違って、ラビエは大学内で順当に出世した。死んだ猿の始末(!)は支援したものの(なんという気まずさ)、二人の関係は何も修復されてないし、修復されるべきなのかもわからない。少なくともポールがこれだけ感情をもつれさせていること、さらにそのことで傷付いている自尊心の問題があり、それらをきちんと解消するためにも、ラビエに謝罪とか和解を求めるべきにも思え、しかしもしかしてラビエが、その必要性を感じてなくて、もはやポールのことを気に留めてもいなくて、とくに何も問題だと思ってないのであれば、これはこのまま、どうしようもない。それはそれで恐ろしい事態ではある。

自意識過剰で、優柔不断で、自らが傷付くのをおそれる若者の、こういう苦悩の深さは、大人になってしまったらもはや理解できない、極度に狭い穴の中に頭を突っ込んでもがき苦しんでる、はたから見れば滑稽でしかない、しかし本人にとっては死にいたるほどの、空前絶後の苦しみであろう。

今観れば、じっくりと描き出されていく各エピソードが一々面白くて、それもおおむね時系列的に語られていくのが、あるときふいに説明もなく回想場面へ移り変わることと、ナレーションがポールの声でありながら、ポールを含む三人称で語られる点が面白い。

この回想場面の指し挟まれ方が、絶妙で素晴らしい。というかどれが回想でどれが現在なのか、にわかには判別しがたいのだ(少なくとも自分には)。だからポールがある時点でシルヴィアとそこそこ仲良しだったときや、ナタンとの距離感や親和の度合いが、まだ現在とは違っていたとか、エステルとの関係なども、明らかに昔だとわかる場面もあれば、そうかな?と思わせる場面もあれば、あ、やっぱり時系列そのままかと後で気づく場面もあれば、そんな曖昧さが、彼ら登場人物たちの関係性の、時間によってどう動き、どう変化したのかが、すぐにはわかりづらくなっていて、それがかえって効果的に物語に奥行きを与え、彼らによるある期間の印象を、ぐっと豊かにしているように思われるのだ。

それにしても最後のシルヴィアの言葉には、胸を詰まらせるものがある。そうかこの言葉は、この映画によって語られた言葉だったのかと、それを今さら思い出して、目に涙を溜めているシルヴィアを見て思わずもらい泣きしそうになった。

大昔に観たときにもそう思ったかどうか、おそらくそうは思わなかった。イラついただけだった気もする。でも今は違うな。これは泣ける。でも願わくば、こんなに時が経ってからではなく、もう少し前に聞きたかった。繰り返しになるけど、なぜ僕はこの映画を観返すまでに、これだけ膨大な時間の経過を必要としたのか、そのことを自分に問いたいとも思う。しかし今となってはもう遅い。

(ちなみに十年以上前にツタヤで買ったまま放置したあった中古VHSで観たのだけど、これは近いうちにもう一度観ようと思って、本作を含むデプレシャン初期作品blu-ray BOXを購入した…。)